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いつまでも大事にしたい沖縄民謡、ウチナーグチ。 唄三線をしながら唄に惚れ言葉に惚れて「うた」の意味に迫ってみたい。     唄の心は作った人から唄う人へ、そして時代を映し変わっていく世相も反映します。       そんな壮大な唄の世界はまるで「海」。                        歌の海に漕ぎ出してさまよいながら旅をしてます。

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浅地紺地
あさじくんじ
'asaji kuNji
浅く染めた布地と濃い藍色に染めた布地
語句・あさじ 琉球藍で染めた布地で藍色が薄いもの。深い愛情を濃い紺色の布地に例え、浅地は浅く薄い愛情、または浮気心などを表すことが多い。


作詞 津波恒徳 作曲 津波恒英



一、紺染みゆとむてい 染みたしが浅地 染みらわんや浅地 色やちかん (色やちかん)
くんずみゆとぅむてぃ すみたしがあさじ すみらわんやあさじ いるやちかん
kuNzumi yu tumuti sumitashiga 'asaji sumirawaN ya 'asaji 'iru ya chikaN
紺色の濃い色に染めたいと思って染めたが浅地(浮気、軽い気持ち)だった 染めようとしても浅地 色がつかない
語句・くんずみ琉球藍で何度も染めて濃い藍色に染めたもの。黒に近い。・ 文語で目的格の「を」に当たる。口語では用いない。・すみらわん 染めようとしても。<すみら。染めよう+わん。〜しようとも。・ちかん つかん。付かない。<ちちゅん。付く。否定形。



二、思切らねなゆみ しんじんと切りて たとい志情や 残てぃをうていん (残てぃをうていん )
うみちらねなゆみ しんじんとぅちりてぃ たとぅいしなさきや ぬくてぃうてぃん
'umichiranee nayumi shiNjiN tu chiriti tatui shinasaki ya nukuti utiN
諦めないわけにいくまい しみじみと縁を切って 例え愛情が残っていても
語句・うみちらね 諦めない。・なゆみ ならないだろう。・しんじんとぅ 神妙にしているさま。→しみじみと。



三、片糸や浅地 片糸や紺地 かんし染みぐりさ 二人が仲や (二人が仲や)
かたいとぅやあさじ かたいとぅやくんじ かんしすみぐりさ たいがなかや
kataitu ya 'asaji kataitu ya kuNji kaNshi sumigurisa tai ga naka ya
片方の糸は浅地 片方の糸は紺地 このように染めにくいものだよ二人の仲は
語句・かんし このように。こんなに。・ぐりさ 難しい。<くりさん。苦しい。



四、肝くみてでんし ちくちゃしがあだゆ 嵐世ぬ恋路 渡いぐりさ( 渡いぐりさ)
ちむくみてぃでんし ちくちゃしがあだゆ あらしゆぬくいじ わたいぐりさ
chimu kumiti deNshi chikuchashiga 'ada yu 'arashiyuu nu kuiji wataigurisa
心を込めてすら尽くしたのに仇を 嵐のような世の中 渡り難いものだ
でんし ですら。だに。・あだ 徒労。無駄。


(コメント)

ままならぬ恋を歌ったウタは沖縄に限らずどこにでもある。
しかし、糸の染め方の強弱で愛情の濃さを表現するウタが現在でも歌われているのは沖縄民謡の特徴の一つと言えるかもしれない。

そういうと中島みゆきさんの「糸」を想起するかもしれないが、縦糸と横糸の関係だけで染色の話ではない。

「浅地紺地」という布(糸)の染め方で恋路の困難さをうたう場合、「浅地」が「浅い恋心」「浮気心」という例えになることも多い。

このウタは何を喩えているのか。意訳してみよう。

一、本気で惚れて愛情を注いできたのに、あなたは軽い気持ちだった。愛情で染めようとしても染まらない。色はつかない

二、あなたをあきらめようと思い、静かに思いを断とうと思う 例え愛情が残っていたとしても

三、あなたは浅地、私は紺地の糸のように、例え組み合わせても染まりにくいだろう、二人の仲は

四、心を込めて、尽くしてきたけれど仇となり、嵐のような世の中は渡り難いものだ


「浅地」について

浅地とは、琉球藍で何度も染めた紺地の濃い色(黒にも見える)に対して薄い色の事である。そういう意味で「浅地紺地」が使われている。しかし必ずしも昔から「浅地」という漢字が使われていたわけではない。

浅地紺染の色分けもないらぬ染めわかちたぼうれ紺屋の主
あさじくんじみぬいるわきんねらん すみわかちたぼり くんやぬあるじ
(歌意)浅葱色なのか、紺色なのか、はっきり染め分けしてください、紺屋の主よ

(引用【琉歌大成】(清水彰))

歌のところは「浅地」と書かれるのに意味では「浅葱」と書かれている。
「あさぎいろ」はウチナーグチ で「あさじいる」と発音する。

asagi iro→asaji iru

「ぎ gi 」は破擦音化で「じ ji」
「ろ ro」は三母音化で「る ru」になる。こういう変化を経てきた。

この古い琉歌をみると、薄い染めか濃い染めか、ではなく「浅葱色」か「紺色」かとい色分けの意味である。けれども浅葱色とは薄い紺色のことでもある。おそらく「あさじ」という読み方になったものに後から当て字をして「浅地」となったのだろう。

「浅地」と書いて薄い紺色という理解でも間違いはないが、「浅地色」には本来、浅葱色という色があり、そうした使われ方があったということを知ることも無駄ではないだろう。

浅葱色とは。
「浅葱色(あさぎいろ)とは、蓼藍(たであい)で染めた明るい青緑色のことです。浅葱とは薄い葱(ねぎ)の葉に因んだ色で、平安時代にはその名が見られる古くからの伝統色。」(参照 浅葱色(あさぎいろ)とは?:伝統色のいろは Brag Wette フレアパンツ フレアボトム レディース Brag wette mid rise flared trousers Orange3AL54Rj



紺地とは

(沖縄県立図書館 記帳資料デジタル書庫 より)


ちなみに「アサギマダラ」という蝶がいる。

(Wikipediaより)
羽根の丸いところの色、薄い水色が浅葱色らしい。



(津波恒英 「おきなわを唄う」に収録)







  

Posted by たる一 at 10:49Comments(0)あ行沖縄本島

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歩っちみそーれー御年寄方

歩っちみそーれー御年寄方
あっちみそーれー うとぅすいがた
’acchimisooree ’utusuigata
お歩きください お年寄りの皆様
語句・あっちみそーれー お歩きください。<あっち<あっちゅん。歩く。+みそーれー<みせーん。・・なさる。お・・になる。の命令形。・うとぅすい お年寄り。<とぅすい。年寄り。成り立ちは[toshiyori→tushiyuri→tushuri→tusui]。


作詞 真玉橋次郎  曲 てんよう節 又は 中立ぬみががま
歌三線  嘉手苅林昌



一、歩っちみそーれー 歩っちゃびらな 老人クラブぬ御年寄方 歩っちゅる運動や御年寄ぬ身体ぬ為にないびーんどー
※ あっちみそーれー あっちゃびらな 老人クラブぬ御年寄方

あっちみそーれー あっちゃびらな [ろーじん]くらぶぬうとぅすいがた あっちゅるうんどーやうとぅすいぬ からだぬたみにないびーんどー
※ あっちみそーれー あっちゃびらな ろーじんくらぶぬうとぅすいがた
※繰り返しは以下略す。
[ ]は大和口。
'acchimisooree 'acchabirana [roojiN]kurabu nu 'urusuigata 'acchuuru uNdoo ya ‘utusui nu karada nu tami ni naibiiN doo
お歩きください 歩きましょう 老人クラブのお年寄りの皆さん 歩く運動はお年寄りのお身体の為になりますよ



ニ、今日ん朝起き楽しみに 東太陽ん 拝まってぃ 野畑ぬ風んソイソイとぅ 悩みぬ苦ちさん ふっ飛ばち 
※繰り返し
ちゅーんあさうきたぬしみに あがりてぃーだん うがまってぃ ぬはるぬかじんそいそいとぅ なやみぬくちさん ふっとぅばち
chuuN ’asa ’uki tanushimi ni ’agari tiidaN 'ugamatti nuhara nu kajiN sooi sooi tu nayami nu kuchisaN huttubachi
今日も朝起きて楽しみに東からのぼる太陽を拝まれて野や畑の風もソイソイと吹けば 悩みの苦しみも吹っ飛ばして
語句・うがまってぃ (私に)拝まれて。<うがぬん。うがむん。拝む。→受け身は「うがまってぃ」。ここでは「太陽が私から拝まれて」という形。太陽を主語にした表現。・くちさん 苦しい。つらい。形容詞。



三、心ん晴り晴り涼々とぅ 年や老きてぃん今若さん 心勇みてぃ歩っちゃびらな 腕振い けー振い汗流ち
くくるんはりばりしだしだとぅ とぅしやふきてぃんなまわかさん くくるいさみてぃあっちゃびら うでぃふいけーふいあしながち
kukuru haribari shidashidatu tushi ya hukitiN nama wakasaN kukuru 'isamiti 'acchabirana 'udi hui kee hui 'ashinagachi
※繰り返し
心も晴れ晴れ涼くて 歳は老けても今は若い 心を励まして歩きましょう 腕を振り手を振り汗流して
語句・けーふい



四、歩ちゅる中る元気なてぃ 若衆に負きゆみ今までぃや トーカチ、カジマヤーん今早ーさん 百才ぬ長命易々とぅ
あっちゅるなーかる[げんき]なてぃ わかすにまきゆみなままでぃや とーかち かじまやーん なまへーさん ひゃくせーぬちょーめい やしやしとぅ
'Acchuru naaka ru [geNki]nati wakasu ni makiyumi nama madiya tookachi kajimayaaN nama heesaN hyakusee nu choomee yashiyashitu
歩く中でこそ元気になって 若者たちに負けられますか?今までは 八十八歳米寿祝いのトーカチや、数え九十七歳祝いのカジマヤーも今まだ早い 百歳の長命を易々と
語句・どぅ。こそ。・とーかち 米寿(八十八歳)の祝い。トーカチとは「斗掻(とかき)」という米の量を測るときに枡の米をならすときに使う竹の棒の事。・むむとぅ 百歳。百歳だけで「むむとぅ」と読むので「百歳と」と歌詞にあるのは間違い。・かじまやー 数え年九十七才を祝う。「かじまやー」とは風車の意味で子どもに還るからという意味がある。・へーさん早い。・ひゃくせー百歳。




(レコードストアのHPより ホワイトスネイク シルバーペンダントチャームsou designs ソウデザインズJc5uTl1FK3

歌詞は筆者聴き取り。一部、嘉手苅林次先生の御教唆をいただきました。

  

Posted by たる一 at 10:33Comments(0)あ行沖縄本島

2020年05月10日

御年日ぬ唄

御年日ぬ唄
うとぅしびーぬうた
’utushibii nu ’uta
御生年日祝いの唄
語句・うとぅしびー 「(各人)の生まれ年の干支と一致する(旧)正月早々日(の祝い)」【琉球語辞典(半田一郎)】(以後【琉辞】。)いわゆる生年日の祝い。

作詞 宜保 盛幸  編曲 大城志津子



一 、 今日ぬ御年日や 子孫前なち 百二十歳までぃん 御掛きみしょり(イースリ サーサー)
きゆぬうとぅしびや くゎんまがめーなち ひゃくはたちまでぃん うかきみしょーり(いーすりさーさー)
kiyu nu ’utushibii ya kwaa Nmagaa meenachi hyakuhatachi madiN ’ukakimishoori
(isuuri saasaa)
※囃子言葉は以下省略。
今日の御生年日の祝いは子や孫を前にして百二十歳までご支配ください
語句・うかきみしょーりご支配ください。<かきゆん。「掛ける。賭ける。(秤に)掛ける。支配する。」+<みしょーり。<みせーん。なさいます。の命令形。なさいませ。



二、 六十一ばんじ 十七、八心 何時ん若々とぅ 年とぅ共に
るくじゅーいちばんじ じゅーしちはちぐくる いちんわかわかとぅ とぅしとぅとぅむに
rukujuu baNji juushichihachi gukuru ’ichiNwakawaka tu tushi tu tumu ni
六十一歳は真っ盛りで十七・八くらいのようだ 何時も若々しく年と共に
語句・ばんじ 真っ最中。・ぐくる ・・のようだ。<くくる。こころ。いわゆる精神的な意味の「心」ではなく、「・・のようなこと[もの][気持ち]」【琉辞】。別のものに例える場合に。ウタの中で使われることが多い。



三、 七十三御祝え 御万人んいもち 酌取いる御酒 体御願げ
しちじゅーさんうゆぅえ うまんちゅんいもち しゃくとぅいるうさき からだうにげ
shichijuusaN ’uyuwee ’umaNchuN ’imoochi shaku tuiru ’usaki karada ’unigee
七十三歳の祝いは多くの方がいらっしゃって 酌に受け取ったお酒には健康の願いを込めて



四、 八十五ぬ年日 八十八トーカチ 百歳風車ん 御祝えさぴら
はちじゅーぐぬとぅしび はちじゅーはちとーかち むむとぅかじまやーん うゆうぇーさびら
hachijuugu nu tushibii hachijuuhachi tookachi mumutu kajimayaaN ’uyuweesabira
八十五歳の年日祝い 八十八のトーカチ祝い 百歳カジマヤーの祝い お祝いいたしましょう
語句・とーかち 米寿(八十八歳)の祝い。トーカチとは「斗掻(とかき)」という米の量を測るときに枡の米をならすときに使う竹の棒の事。・むむとぅ 百歳。百歳だけで「むむとぅ」と読むので「百歳と」と歌詞にあるのは間違い。・かじまやー 数え年九十七才を祝う。「かじまやー」とは風車の意味で子どもに還るからという意味がある。



五、 琴や三味線に 弦合わち今日や 踊いはにしちょてぃ御祝えあしば
くとぅやさんしんに ちるあわちきゆや うどぅいはにしちょーてぃ うゆえあしば
kutu ya saNshin ni chiruu ‘awachi kiyu ya udui hani shichooti ‘uyuwee’ashiba
お琴や三線を弦の高さを合わせて今日は踊ったり跳ねたりしていてお祝いし遊びましょう
語句・うどぅいはに踊ったり、跳ねたり。「踊り羽」と当て字がしてある。




「我した島唄~大城志津子決定盤~」に収録。  

Posted by たる一 at 12:56Comments(0)あ行沖縄本島

2020年03月14日

茅打ちバンタ

茅打バンタ
かやうちばんた
kayauchi baNta
「茅打ちバンタ」という地名
語句・かやうちばんた「はんた」とは崖、つまり崖っぷちのことである。沖縄本島の北部、国頭村の辺戸岬の手前にある崖の名前で高さ100メートルほどの高さがある。茅の束を上から落とすとバラバラと音をたてて落ちることからそう名付けられた。


作詞 前田義全  作曲 山内昌春    唄三線 古謝 栄仁



一、音に豊まりる茅打ぬハンタ 昔戻る道 なまや変わて (なまや変わて)
(カッコは繰り返し。以下省略)
うとぅにとぅゆまりる かやうちぬはんた んかしむどぅるみち なまやかわてぃ
‘utu ni tuyumariru kayauchi nu haNta ‘Nkashi mudurumichi nama ya kawati
有名な茅打ちバンタ 昔の戻る道は今は変わってしまって
語句・うとぅにとぅゆまりる有名である。・むどぅるみち茅打ちバンタに行くには昔、宜名真漁港からの登る一本道しかなかった。岩の裂け目にある狭いその道は人がすれ違うことも困難で、どちらかが譲って「戻る」ことから「戻り道」とよばれた。



二、茅打ぬハンタ 何時ん白々と 波の花咲かち 足ゆ止みて
かやうちぬはんた いちんしらじらとぅ なみぬはなさかち あしゆとぅみてぃ
kayauchi nu haNta ‘ichiN shirajira tu nami nu hana sakachi ‘ashi yu tumiti
茅打ちバンタ(から見る景色は)いつも白々と波の花が咲いたように見えて 足を止めて(眺めている)



三、茅打ぬハンタ 遊ぶ美童女ぬ 唄声ぬ清らさ 目笑美らさ
かやうちぬはんた あしぶみやらびぬ うたぐぃぬしゅらさ みわれちゅらさ
kayauchi nu haNta ‘ashibu miyarabi nu ‘utagwii nu shurasa miiwaree churasa
茅打ちバンタで遊ぶ娘の歌声のかわいらしいことよ!笑顔が美しいことよ!
語句・しゅらさ<しゅらーさん。可愛い。・うたぐぃ会話での発音は「うたぐぃー」。・ちゅらさ<ちゅらさん。美しい。という形容詞が「ちゅらさ」と体現止めになると「なんと美しいのか」という感嘆の意味になる。



四、朝夕うす風に むまりやい居てん 茅打ぬハンタ 千代ぬ姿
あさゆうすかじに むまりやいうてぃん かやうちぬばんた ちゆぬしがた
‘asa yuu ‘usukaji ni mumariyai utiN kayauchi nu haNta chiyu nu shigata
朝夕毎日のそよ風にもまれていても茅打ちバンタは昔からの姿のままだ
語句・あさゆ<あさゆー。「毎日」のことである。・うすかじ「そよ風」




コメント
観光地としては辺戸岬に向かう途中にある景勝地を讃えたウタである。
作曲の山内昌春氏は「赤犬子」「一番友小」などの作者であり民謡歌手である。
作詞の前田義全氏はあまり知られていないが多くの琉歌の作者であると同時に元ハンセン病の患者である。

2016年頃、那覇の楽器店でたまたま見つけたレコード。150円だった。作詞をされた前田義全さんとはご存命中の2015年に知り合い、ご自宅のある沖縄愛楽園で泡盛を交わして琉歌について色々と教えていただいたことがあった。

そこで「茅打ちバンタ」のことについても伺っていた。前田義全さんの作られた琉歌は数知れないが、そのうちのいくつか。

屋我地島浦の白波の美らさ
浮る島々の影んのどか

道やりば里前 近道(くんちり)
んゆたさ
人生の道やりば誠肝いりて

岩間走ゐ松ぬ下枝ゆくぐて
出じ船ぬ美らしゃ 運天ぬ港


想いや景色を琉歌に即興的に歌い込めていくことが、ハンセン病や差別との苦しみの中で大きな支えになったと義全さんは泡盛を片手に語ってくださった。

「沖縄のウタは泥の中から生まれた。良い暮らしの中から生まれたものではない。皆苦労して生まれてきたウタ。だから、どんなに打たれてもひどいことをされても人を恨むことはない。人を助けるのが沖縄のウタなんだ」

「確かにウタには裏も表もある。しかし金儲けや人気とりや、人を蔑むためのものじゃない。そんな悪い心を持ってウタを歌うものじゃない」


茅打ちバンタを聴きながら義全さんの言葉の重さを感じる。




2015年愛楽園にて。筆者と前田義全さん。


前田義全さんが自作の琉歌を綴られたもの。何冊もご自宅にはあった。









  

Posted by たる一 at 11:00Comments(2)か行沖縄本島

2020年02月14日

ウチナートークショーのご報告


2月7日。
銀座わしたショップは有楽町駅のすぐ前。大通りに面している大きなビルにあった。広島から新幹線で約4時間!



沖縄らしさがドーンと銀座一丁目に表現されている。



店の中はもう沖縄がいっぱい!
見ていても飽きない。

宮里編集長はあちこちにポスターを貼ってくださっている。



お昼ご飯を食べようと銀座の中にある香港料理の店に入ると、見かけない方から

「関 洋さん?」

と声をかけられた。
あ!Facebookで黒猫つながりの友人(もちろんお会いしたことはない)で、お顔も拝見したこともない方だった。

「夕方のトークショーには行くつもりだったけど、なんで私がよく来るお店にいるのかしら、とびっくり」

私の方もびっくりでしたよ(笑)



わしたショップのスタッフの皆さんや店長さんたちにも大変お世話になりながらトークショーの時間を迎えた。



立ち見も出る予想以上の方々のご来場。
宮里編集長がインタビュアーとなってボールを投げてくれるので、緊張もなく楽しくお話しさせてもらう。

子どもの頃のことや島唄研究を始めた頃のこと、思いなど。




そして「では歌ってもらいましょう」と。

え?

もうトークは終わり?実は話したいことの十分の一も話せてない、という気持ちを抱えつつ、宮古根、今帰仁ミャークニーを。



わざわざ広島から足を運んでくれたかりんちゃんと「サキシマのテーマ」。



鳩間節を踊ってくださる方と。



終わると皆さんお一人お一人からのご挨拶、サイン、写真撮影に1時間近くかかる。それほど多くの方々に「たるー」は大切にされているということを感じた。

沖縄に行くとよく「たるーさんですか」と声をかけられる。ネットの「島唄まじめな研究」のたるーはとても大切にされていて、利用されている方はそこから何かを掴んでくださっているということだ。

改めて「たるー」としての責任の重さを感じた。

そして同時にこの機会を与えてくださった宮里英克編集長、そして銀座わしたショップさんに感謝を申し上げたい。



このブログの読書の皆さん、わざわざ足をお運びいただいてありがとうございます。

今帰仁ミャークニーのこともお話が出来て、歌わせていただいて、こんなに嬉しいことはない。



当然打ち上げも大盛り上がり!
沢山の唄者さんたちもきてくださっていることがわかり感激!



もし出来るなら、二回目は出版記念トークショーをしたいと思うのだった。

皆さん、ありがとうございました!  

Posted by たる一 at 14:32Comments(0)島唄コラム

2020年02月06日

銀座でトークショー

「たるーの島唄コラム」を書かせてもらっているフリーペーパー「ハイサイ!ウチナータイム!」の宮里英克編集長から「今度銀座でトークショーがあるので出てみませんか」と話があった。東京には長男夫婦に子どもが生まれたので行きたいと思っていた矢先、渡りに船なんて思って引き受けた。



すると宮里さん、こんなポスターまで作られていた。

そして



今月号の「ハイサイ!ウチナータイム!」の表紙にも使われていた。

されたことはないが、なんとなく指名手配されたような(笑)

トークショーでは、このブログを作り始めた頃にウチナーグチを習った胤森さんのこと、このブログを作ってからのエピソード、そして沖縄の各地を旅して見えてきたこと、今帰仁ミャークニーとの出会いなどなどをお話ししたい。もちろん
いつもお世話になっている嘉手苅林次師匠のことも。

1時間では足りないとは思うが、フリップを作っていってわかりやすくまとめよう。

そして歌三線では今帰仁ミャークニーを歌う。

工工四も欲しい方には差し上げたい。

もう明日だ。

準備しなくては。


皆さん、東京銀座、わしたショップ地下にお集まりください!


  

Posted by たる一 at 09:25Comments(0)島唄コラムご挨拶

2020年02月05日

親心

親心
うやぐくる
‘uya gukuru
親心


作詞・作曲 普久原朝喜
歌三線 山里ユキ


一、銭やこの世の廻りもの 難儀辛苦や世の習ひ 産子育てや世間の人並 育てる産子や万貫の宝
じんやくぬゆぬまわりむん なんじしんくやゆぬならゐ なしぐゎすだてぃやしきんぬちゅなみ すだてぃるなしぐゎやまんぐゎんぬたから
jiN ya kunuyu nu mawarimuN naNji shiNku ya yuu nu narai nashigwaa sudati ya shikiN nu chunami sudatiru nashigwaa ya maNgwaN nu takara
お金はこの世の廻りもの 苦労は世の中では当たり前だ 子育ては世間の人並み 育てる子どもは万貫(当時200円ほど。高額だった)に匹敵する宝
語句・じん 銭。・なしぐゎ自分が産んだ子ども。・まんぐゎん万貫。一貫は二銭だったから二百円になる。



二、產子育てることやれば 一時の苦労や塵どやる 産子育てや楽しみものさみ 産子育てやお国の為にも
なしぐゎすでぃるくとぅやりば いちじぬくろーやちりどぅやる なしぐゎすだてぃやたぬしみむんさみ なしぐゎすだてぃやうくにぬたみにん
nashigwa sudatiru kutu yariba ‘ichiji nu kuroo ya chiri du yaru nashigwa sudati ya tanushimimuNsami nashigwa sudati ya ‘ukuni nu taminiN
子どもを育てることであれば一時の苦労など塵ほどのものに過ぎない 子どもの成長は楽しみであろう 子育てはお国の為にも
語句・やりば 〜であるなら。・どぅやる 〜である。



三、何時が産子も物思て 親の苦労もわかて呉て 親に孝行もお国の為にも 尽ちょて呉ゆる宝の産子
いちがなしぐゎんむぬうむてぃ うやぬくろーんわかてぃくぃてぃ うやにこーこーんうくにぬたみにん ちくちょてぃくぃゆるたからぬなしぐゎ
‘ichi ga nashigwaN munu ‘umuti ‘uya nu kurooN wakati kwiti ‘uya ni kookooN ‘ukuni nu taminiN chikuchooti kwiyuru takara nu nashigwa
いつか子どもは考えるようになり 親の苦労が分かってくれて 親に孝行することをお国のためにも 尽くしてくれる宝の我が子
語句・いちが いつか。<いち。いつ。+が。疑問の助詞。



四、男の産子や墨習らち 女の産子や夫持たち 産子多さやお国の為にも お国の栄や臣下ど宝
ゐきがぬなしぐゎやしみならち ゐなぐぬなしぐゎやうとぅむたち なしぐゎうふさやうくにぬたみにん うくにぬさけーやしんかどぅたから
wikiga nu nashigwa ya shimi narachi winagu nu nashigwa ya utu mutachi nashigwa ‘uhusa ya ‘ukuni nu taminiN ‘ukuni nu sakee ya shiNka du takara
男の子は学問を習わせ、女の子には結婚させ 子どもの多さはお国のためにも お国の栄えは家族や仲間を宝とすることにある
語句・しみ 学問。<しみなれー。学問。・うとぅ夫。「音」も「うとぅ」だが、こちらはサボイ SAVOY ハンドバッグブラックレッドLpzMqSVUGがある。・しんか仲間。「部下;〔転じて〕家族、仲間。」【琉球語辞典(半田一郎)】



(コメント)

三線教室の生徒の一人がこれをやりたい、と言ってきたので持っていたCD「山里ユキ特集」を改めて聴き、工工四も見つけた。




久しぶりの当ブログである。実は、これまでは電車通勤の時間などを活用して書いてきたが電車通勤もなくなり、「たるーの三線 ゆがふ家」という三線屋と「しまうた酒菜 ゆがふ家」という居酒屋を昨年立ち上げたのでブログにかける時間も取れず忙殺されていた。

それでも、このブログを読んでくださる方々が多いことを痛感することが最近よくあり、店の仕込みなどの休み時間を見つけて書いてみた。だがそれは所詮私ごとにすぎない話なので本題に入ろう。

作詞作曲は普久原朝喜(1903-1981)氏である。
ご存知のように朝喜氏は戦前戦中そして戦後の沖縄民謡を自分の作品と古典や民謡唄者の演奏を録音しレコード化することによって大きな貢献をされた方である。

作品には「入営出船の港」「浦波節」(「物知り節」ともいう)「移民小唄」「恨みの唄」「世宝節」「布哇節」「無情の唄」などがある。そしてこの「親心」である。

ウタの時代背景を色濃く反映したウタである。もちろん時代背景を反映しないウタなどないと思うが、特に戦時中は検閲という国家権力によるウタへの統制があったために、検閲をかなり意識したとみられるウタは多い。朝喜氏のこの「親心」もその一つだろう。そしてそれを軍国主義への協力と見ることは十分可能である。

「親心」は子育てをテーマに、子どもは宝である、だから親の苦労など大したことはない。子どもも成長すれば親に孝行する。国のためにも。男の子には勉強をさせ、女の子には良い結婚をさせることが国の為にもなる、何故ならば子どもたちが幸せになることが国の繁栄になるのだから。とうたう。

現在の目線で見れば明らかな男女差別、性差別を含んでいる。朝喜氏が戦後の沖縄民謡の復興にも大きな役割を果たされたことを踏まえても、このウタに含まれる軍国主義的、性差別的部分を看過することはできない。

それでもこの朝喜氏が検閲をも通過できるように歌詞を作った中に、ある工夫があると思うのは考えすぎだろうか。

それは二度も繰り返される「お国のためにも」の「も」である。おそらく激戦時期より前に作られたのではないか、と思えるほど「国の為に命を捧げよ!」的な表現はなく、男尊女卑的ではあるが子どもたちを大切にしよう、子育ては自分のためでもある、が「国のためでも」あるというロジックが許された時期のウタなのであろう。

最後の「お国の栄えは家族や仲間を宝とすることにある」。このような思想は「国の為に命を捧げよ」とした軍国主義の色濃い時代には決して許されなかったはずだ。







  

Posted by たる一 at 09:08Comments(0)あ行沖縄本島

2019年07月10日

恩納ナビー

思納ナビー
うんな なびー
'uNna nabii
恩納村のナビー
語句・うんな 沖縄本島中部の地名、恩納村。・なびー 女性の名前。「鍋」の意味でつけられることが多かった。「恩納ナビー」は恩納村生まれのナビーということ。


作詞 西 泉 作曲 知名 定繁


(ツラネ)恩納岳あがた里が生れ島森ん押しぬきて此方なさな
うんなだきあがた さとぅがんまりじま むいんうしぬきてぃくがたなさな
'uNnadaki ’agata satu ga Nmarijima muiN ’ushinukiti kugata nasana
恩納岳の向こう側が愛する貴方の生まれた村 丘(恩納岳)も押しのけてあなたの村をこちら側にしたいよ
語句・うんなだき恩納岳。「たき」は拝所のある山のこと。・あがた「あっちの方。あちら側」沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)・んまりじま生まれた村。・むい「丘。山。」【沖辞】。「森」と当て字がしてあることが多いが「盛りあがった土地」のことを「むい」という。・くがた「こっち側。こっち」【沖辞】。・なさな<なしゅん。為す。+な。よう。「したいよ」。

一、恩納岳隔み自由ならん語れ恨で詩詠だる人ぬ昔 自由ならん吾が思い
うんなだきふぃじゃみ じゆならん かたれー うらでぃうたゆだるふぃとぅぬんかし じゆならんわがうむい
'uNnadaki hwijami jiyu naraN kataree 'uradi 'uta yudaru hwitu nu Nkashi jiyu naraN waa ga 'umui
恩納岳が貴方と私を隔てているので一緒にいることもままならない と恨んで歌を詠む人は昔の話だが恋がままならない 私の愛と同じ
語句・ふじゃみ隔て。・かたれー 「①仲間となること。仲間入りを約束すること。②男女の一緒になる約束。」【沖辞】。「語」が当て字になっていることがよくあるが、会話することに限らず「仲を深めること」。「味方」の「かた」に近いものがある。



(ツラネ)明日からぬ明後日 里が番上り滝ならす雨の降らなやしが
あちゃからぬあさてぃ さとぅがばんぬぶい たちならすあみぬふらなやしが
'acha karanu 'asati satu ga baN nubui tachi narasu 'ami nu hurana yashiga
3日後は貴方が首里に勤番で行く日 ひどい雨でも降って行けなくなればいいのに
語句・あちゃからぬあさてぃ直訳すれば「明日からの明後日」、つまり3日後。・ばんぬぶり 首里城での勤番に行くこと。・たちならすあみ 滝のような雨。・ふらな 降ってほしい。

二、至極降て呉りば 吾が思い叶て枕並びゆる 節ん有ゆら 吾が思い自由ならん
しぐくふてぃくぃりば わがうむい かなてぃまくらならびゆるしちんあゆら わがうむいじゆならん
shiguku hutikwiriba waga 'umui kanati makura narabiyuru shichiN 'ayura waga 'umui jiyunaraN
激しく雨が降ってくれたら私の思いが叶い 枕を並べる時もあるのだけれど 私の思いは自由にならない
語句・しぐく 「至極。ひどく。非常に。」



(ツラネ)姉べたや 良かてい シヌグしち遊で わした世になりば 御止みさりて
あにびたや ゆかてぃ しぬぐしちあしでぃ わしたゆになりば うとぅみさりてぃ
'anibita ya yukati shinugu shichi 'ashidi washitayuu ni nariba 'utumi sariti
姉さんたちは良かった シヌグで遊んで 私たちの時代になるとシヌグも禁止されて自由ならない私の思いは
語句・あにびた姉たち。・しぬぐ「農村で祭りの時、男女で行う舞踊。村の若い男女が神前の広場で入り乱れて踊る。儒教思想輸入により尚敬王時代に禁止されたことがある。」【沖辞】。

なぐさみん知らんシヌグ迄止みて はたち美童ぬ 肝ぬいたさ自由ならん吾が思い
なぐさみんしらん しぬぐまでぃとぅみてぃ はたちみやらびぬ ちむぬいたさ じゆならんわがうむい
nagusamiN shiraN shinugu madi tumiti hatachi miyarabinu chimu nu 'itasa jiyu naraN waga 'umui
慰めも知らず シヌグ遊びを禁止されて二十歳娘の心は痛いことだろう 自由にならない私の思い



(ツラネ)恩納松下に禁止の碑の立ちゅし恋忍ぶ迄の禁止や無さみ
うんなまちしたに ちじぬふぇぬたちゅし くいしぬぶまでぃぬ ちじや ねさみ
'uNna machi shita ni chiji nu hwee nu tachushi kui shinubu madi nu chiji ya neesami
恩納村の松の木の下に何かを禁止する御触書が立っている まさか恋の逢引までも禁止するお触れではないだろうね
語句・ちじ 禁止。・ふぇー 御触書。・ねさみないだろうか。

四、情ねん役人ぬ 恋ぬみち禁止てい山原ぬ花や何時が咲ちゅら我が思い自由ならん
なさきねん かみぬくいぬみちちじてぃ やんばるぬはなや いちがさちゅら わがうむいじゆならん
nasaki neeN Kami nu kui nu michi chijiti yaNbaru nu hana ya 'ichi ga sachura waga 'umui jiyu naraN
情けない役人が恋の道を禁止して山原の花は何時咲くだろうか 私の愛は自由にならない
語句・かみ いわゆる「お上」。


(たるーのコメント)

女流詩人として名が知られる「恩納ナビー」が詠ったとされる琉歌をツラネとし、知名定繁氏が作曲し、また補作詞をした。

ツラネとは「ツラニ」「ツィラニ」と発音するが、「①長歌 琉歌の長歌。②連歌。琉歌でふたり以上で読みつらねること。また、よみつらねた歌」【沖辞】である。琉歌のツラネには一定のメロディーがある。

知名定繁氏(1916-1993)は普久原朝喜氏などの影響を受け沖縄民謡歌手、作詞・作曲家としても沖縄民謡界の重鎮である。また宮廷音楽湛水流の研究や同箏曲譜などの編纂を行った。創作曲に「でぃぐぬの花」「門たんかー」「別れの煙」「嘆きの梅」などがある。

「恩納ナビー」は実在した明確な証拠はないが、18世紀前半に恩納村に生まれ、この曲のツラネになった琉歌を詠んだとされている。


▲ナビーの恩納村の生誕地にある石碑。「マッコウ家」とあるのはマッコウ(ハリツルマサキ)の木があった言い伝えがあり、「マッコウ ナビー」とも呼ばれていた。


▲琉歌「恩納松下に禁止の碑の立ちゅし恋忍ぶ迄の禁止や無さみ」を紹介した歌碑。


▲万座毛の駐車場にはいくつかの歌碑がある。
この曲に紹介された琉歌以外には
波の声もとまれ 風の声もとまれ 首里天がなし 美御機拝ま
(歌意)波の音も静まれ 風の音も静ま 首里の王様のお顔を拝見したい
という琉歌もある。

庶民に生れながら想いを自由に琉歌に乗せて、山をも動かし雨まで降らせようとする情熱的で力強いナビーという一人の娘の才能はこの「恩納ナビー」という曲で見事に現代に蘇っているようである。







  

Posted by たる一 at 07:34Comments(0)あ行沖縄本島

2019年07月08日

那覇散歩 余談 「仲島の大石の説明板」

那覇散歩の途中で立ち寄った「仲島の大石」の記事を覚えていらっしゃるだろうか。

6月14日に書いているが、仲島の大石の説明板がほぼ人から見えない場所になっている、と指摘したのだった。少しだけ再掲する。



この解説板は、バスセンターが建て替えられてからわかりにくい場所になってしまっている。説明板は元からあった場所である。昔のバスセンターでは、通路からよく見える場所だった。しかし今は花壇によって人はそこまで行けないようになっている。植えられた草花をかき分けて、ここまで見に来る方はまず居ないだろう。そもそも見えないのだから地元の方もあまり知らないのではないか?私も教えて頂いて知った。とても残念な事である。」

実は5月30日に仲島あたりを散歩し、大石の写真をFacebookにアップロードしたところ、関東に住むfacebookの友人から「説明板があるらしい」と教えもらった。

そこで6月3日にもう一度大石の場所に立ち寄って、久しぶりにその説明板を見たのだった。その頃は通路側に説明板があった。

とにかくわかりにくいところに「隠してある」(?)という印象だった。その時の気持ちを書いたのが上の文章である。

それを見たFacebookの友人たちが、沖縄の新聞社に知らせてくれたりした。


すると

返品OK ジミーチュウ 長財布 レディース JIMMY CHOO FILIPA DDP BKS ブラックSMULpqzVG
という記事が出た。(クリックすると記事に飛びます)

(琉球新報の記事より)


記事の要旨はこうだ。

・記者が仲島の大石に行ってみると、説明板が見えにくいところにあった。大石はネットなどでもパワースポットと言われている。

・説明板はなぜ隠れたか。

・那覇市に問い合わせると、再開発前は「通り沿いで見やすい位置にあった」(担当者)。再開発で塀が設置され「裏側」になったという。市にも問い合わせがあり、旭橋都市再開発と調整し説明板を見やすい場所に移すか、新設するか検討していたが…。

・情報提供から約3週間後の24日、「説明板ができている」という情報が新聞社にあった。

・市文化財課によると21日に設置したという。

・市は説明板の新設を決定しており、完成まで数カ月の「仮設」措置という。説明板を手作りした同課の長嶺盛孝さんは「設置から30年経過するので、文言も見直したい」と語る。隠れたことでより神秘性が高まったかもしれない仲島の大石。どんな説明文が加わるかも期待される。
 
要旨は以上。琉球新報の記者が「説明板」が見えにくい事に気付き、見えにくいところにあること、また説明板が見えやすいところに仮設されてから見に行き、那覇市に問い合わせている。それは有難いことだ。

ちなみに琉球新報社と仲島の大石は歩いて5分もかからない。

ただ、残念なことは「仲島の遊郭」のことについて記事は一言も触れていないことだ。

説明板の中身は当然「遊郭」について触れている。
説明板がすぐに見えやすいところに移設されなかった遠因に、この「遊郭」という説明があったのではないか、と私は推測する。「遊郭」は「歴史的な汚点である」そんな意識が働くのではないだろうか。新聞社も同じような心理で記事を書かれているのではないか、とまで感じるほど一言も説明板の中身に触れていない。

沖縄の新聞社として、きちんとした取材と勉強、そして継続しての取材をお願いしたいものだ。


そして最後に、他にも説明板が消えた場所がある。
首里の大村御殿の「耳切坊主」のそれである。

ウタの痕跡が消えていく、人の手で。
それが悲しい。



  

Posted by たる一 at 05:50Comments(0)島唄コラム沖縄本島

2019年07月08日

那覇散歩 その3 〈渡地〉

渡地と民謡

先月沖縄を訪れた際に那覇、壺川に宿を取り、ぶらぶらと仲島、辻と歩いた話の続きを書いている。
遊郭の歴史と民謡、ウタが密接な関係にあったということも見た。

那覇にあった主要な遊郭は辻、仲島、渡地の三つ。
その「渡地」(わたんじ)にも行きたいのはヤマヤマだが、その街は現存しない。

人気のある民謡には登場する。

「三村踊り節」

♪辻仲島と渡地と三村
三村の尾類小達がすりとーて客待ち話 
美ら二才からはい行ちゃらなや♪


(たるー訳)
辻、仲島、渡地という三つの村 
三つの村の女郎達が揃って客を待ちながらの話 
イケメンの青年に早く会いたいな

他にも「海のチンボラー」などにも出てくる。
では遊郭があったその「渡地」とはどのあたりだったのだろう。昔の地図を見てみよう。



▲ 赤く囲ったあたりが渡地だった。その少し右に仲島遊郭と書かれている。

ゆいレール「壺川」の駅の前にかかる「北明治橋」のたもとに「奥武山の歴史をみまもる 明治橋の移り変わり」という説明碑がある。

その中の写真。明治初期の地図とあり、まだ那覇と対岸(垣花町)には橋がなかった頃だ。

渡地には二本橋が書かれているが、その昔は渡し船で渡ったという。そして、対岸の垣花町にも渡し船で渡った。それが地名「渡地」の由来だという。

現在のどの辺りになるのか。



グーグルマップを見ると上の地図にもあるが「在番奉行所」(琉球時代の薩摩藩の役 役場)の跡との位置関係から比較してみると、だいたい赤く囲んだあたりとなるだろう。住所でいうと西町一丁目と通堂町一丁目、沖縄製粉付近になるのではないか。

ちょうど那覇ふ頭船客待合所の建物の少し東側になる。

渡地の周辺

その那覇ふ頭船客待合所に行ってみる。


▲対岸には御物城(オモノグスク、読み方はウムヌグシク)がある。


▲琉球王朝時代の宝物庫。中国、東南アジアと交易が盛んだった頃に入手した宝物が収められていた。テレビの「ブラタモリ」でも取り上げられ、白磁の割れた陶器が散乱している様子も放映された。こうした歴史的建造物も米軍基地の中にある。

先程も取り上げた北明治橋たもとの説明板「奥武山の歴史をみまもる 明治橋の移り変わり」に渡地と御物城が描かれた絵があった。

▲今の明治橋は昔からあったのではなく、最初は渡地から垣花町(市街地から那覇空港に向かう道路のあたり)に橋が架けられていて、それが明治橋と名付けられていた。まだ形がはっきりしている御物城が描かれている。この当時は城の上に料亭「風月堂」があった。

北明治橋から北西を眺める。仲島と遠くに明治橋が見える。その向こう側に渡地があったわけだ。

▲北明治橋はゆいレール壺川の駅前に奥武山公園と繋げられた木造の橋である。今回初めて渡った。
ここの説明板はとても詳しく、写真や絵も多く分かりやすい。

三つの遊郭と琉球の芸能

たとえ遊郭が人身売買であり、今日では許されない事であっても、そこで暮らしたジュリ(女郎)たちと士族や庶民との間で芸能が交流され発展してきたことは隠しようもない事実だ。

地方の庶民はモーアシビで芸能を発展させた一方、那覇など都市部の士族や庶民は遊郭がそれに取って代わった。琉球王朝の中ではウタ三線、舞踊も全て男性の仕事であったが、遊郭では女性たちがウタ三線をし、舞踊の主体だった。

古典音楽の始祖すら曲の発想を遊郭にもとめた。遊び歌の多くは遊郭で発展した。

そう考えると、今でも那覇のこの遊郭の場所を訪れ、その光景を目の当たりにすることでウタへの思い入れも深くなる。ただ遊びのウタであってもジュリたちがどのような想いだったのか、家族への思いや生きることへの思いはどうだったのか。歌詞そのものからは浮きださない情景もある。歌詞を訳したからと言って、そこだけでは分かり得ない人々の思い入れもある。少しでも近づけないか、との思いでの那覇散歩、ひとまずこれで終えよう。

  

Posted by たる一 at 05:48Comments(0)島唄コラム沖縄本島

2019年07月08日

那覇散歩 その2 〈辻〉

仲島から那覇市の西へ。辻を訪れてみる。




今では色々なホテル(?)などが多く目立つ歓楽街という感じの街の中に小さな丘があり、そこには「鎮魂」の文字が見える。


その手間に説明碑がある。



いつものように長いが引用する。

『辻村跡(チージムラアト)

 那覇の北西部にあった花街(はなまち)跡。辻村(チージムラ)、または単に辻(チージ)といい、女性が主体となって生活した場所であった。辻の女性は「ジュリ」と呼ばれ、「侏イ离」・「尾類」の字が当てられた。

 琉球王国におけるジュリの起源については不明だが、15世紀以降、唐(とう)や南蛮(なんばん)(東南アジア諸国)、大和(日本)と交易を行った時代、中国からの冊封使一行や大和からの商人等をもてなした「ジュリ」が居たといわれる。『球陽(きゅうよう)』には、1672年に「辻」・「仲島(なかしま)」に村を創建し、そこに多くのジュリが住むようになったとあり、この頃、各地に居たジュリを「辻」・「仲島」・「渡地」の3 ヵ所が琉球の花街として明治期まで存続した。

 1879年(明治12)に沖縄県が設置されると、ジュリは18歳で登録証(鑑札(かんさつ))が交付された。1908年(明治41)に「仲島」・「渡地」の花街は廃され、「辻」に統合された。これにより「辻」は、政財界の要人、官公庁・教育界の指導者をはじめ、地元の商人などが出入りし、接待や宴会が行われた。また旅客が宿泊する場所ともなった。ジュリは、これらの客をもてなし、安らぎを与えるために、料理や唄・三線(サンシン)・琴・踊りなどの芸事にも磨きをかけた。「辻」は、沖縄県下最大の社交場、「華やかな」場所として知られた。

 一方、辻の女性は、「アンマー」(ジュリの抱え親・貸座敷の女将)を筆頭に、「ジュリ」、「ナシングヮ」(アンマーが産んだ子供)、「チカネーングヮ」(貧困のため幼い頃に「辻」に売られた子「コーイングヮ」ともいう)などで擬制的家族を作り、「辻」の親・姉妹はもとより、故郷の親・兄弟をはじめ、人間社会における義理・人情・報恩を第一の教えとして生活した。また、神への祈りと祭りを取り仕切る「盛前(ムイメー)」と呼ばれる神職を中心とした女性による、女性のための自治組織を整え、二十日正月(はつかしょうがつ)の「ジュリ馬(うま)」行事を始め、言葉・立ち居振る舞いから、衣裳・髪型・料理・芸能に至るまで独自の文化を創り上げた。

 1609年の薩摩藩島津氏の琉球侵攻を経て、1672年に誕生した華やかな「辻」も1944年(昭和19)10月10日の空襲により消滅し、その幕を閉じた。』


簡単にまとめられているが、「辻」すなわち遊郭の歴史は琉球王朝が薩摩の侵攻を受けてから戦前まで続いていたことがわかる。


▲「客をもてなすジュリ」


▲「『琉球美人』と称されたジュリたち」


▲「ジュリ馬」は旧暦の1月20日に行われる芸能。行列を作って歌い踊る事で、「故郷の家族に元気な姿を見せる」という意味があると言われている。

遊郭と民謡

遊郭を歌ったり、遊郭が出てくるウタ、琉球民謡は多い。

前回も見た仲島節、花口説、恋の花、海のチンボラー、西武門節、三村踊り節などなど枚挙にいとまがない。


「琉球交易港図屏風」にも「辻村」が、戯画的であるが描かれている。鳥居の左の村が、そうだ。

遊郭の仲島に通い、作詞作曲活動で花を咲かせた人物がいる。この人がいなかったら今日のような琉球芸能にならなかったかもしれない人物、それは幸地賢忠、琉球古典音楽の祖とも称される。琉球古典音楽の流れをくむ野村流、安冨祖流の源流とされる湛水流の始祖と言われる人物だ。

琉球芸能、文化にとって「ジュリ」と呼ばれた遊女たちや、その組織であった辻や仲島がなくてはならない存在だとされるのは、この幸地賢忠が作った「暁節」や「首里節」という代表的な曲がジュリと共に作った、とされることだ。(参考 交換無料送料無料あす楽エルケイ花柄 Aライン 上品 ミディアムドレス ワンピースパーティーズ 結婚式 二次会 膝丈 大人 即日発送 ママ 母親 他と被らない レディース パーティー ドレス きれいめ キャバクラ 秋 夏 半袖 袖ありgb7vIf6ymY与那覇晶子)

首里の士族たちは王府に勤めながら、ジュリたちにウタ三線、舞踊などの芸能を教えたという。そして、そのジュリたちから新たなウタ三線、舞踊のヒントを得ていたのではないか。

仲島、辻から今度は「渡地」に向かう。  

Posted by たる一 at 05:44Comments(0)島唄コラム沖縄本島

2019年06月14日

那覇散歩 その1 〈仲島の大石〉

2019年5月29日から沖縄に滞在した。その時の雑感を書いた。その1。

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早起きの習慣は抜けない。沖縄に行っても5時には起きている。いや、沖縄だからこそか。

今回、宿を那覇市の壺川(つぼがわ)に選んだのは近くに仲島の大石があるなどいくつか気になる場所があったからだ。早速カメラを持って散歩に出た。

ゆいレールの駅「壺川」から一つ先にある「旭橋」のすぐ近くにその「仲島の大石」がある。


▲仲島の大石。右にある建物はバスセンター。3階に沖縄県立図書館が入っている。


▲絵に描かれた仲島の大石と仲島の遊郭。
(文字は筆者)
大石(うふいし)ではなく大瀬(うふし)と呼ばれていた。
その大石は海の上に突き出た琉球石灰岩で、バスセンター側が陸地だった。大石の下には波に削られた跡、ノッチがあるのはそのためだ。

遊郭仲島には吉屋チルーも居た。多くのウタ、琉歌が生まれている。その一つが「仲島節」だ。作者は不明。

♪仲島の小橋 あいんある小橋 じるが小橋やらわかりぐりしゃ

仲島の遊郭に行くには小堀にかけられた橋を渡らねばならなかった。それ以外にもいくつも橋があったのだろう。「仲島の小橋というが、あんなにも小橋があるじゃないか どれがその小橋なのかわかりにくい」という意味だ。その小堀は上の絵では「仲島池」とある。

仲島の大石から北西に通りを少し歩くと最初の交差点の角に小さな説明板がある。



説明板にはこうある。

『泉崎村(いずみざきむら)にあった人工の溜(た)め池跡。
 かつて泉崎村の地先一帯は、久茂地(くもじ)川が漫湖(まんこ)に合流する河口で、土砂が堆積(たいせき)した中州(なかす)は「仲島(なかしま)」と呼ばれ、その後の埋立により陸続きとなった地域である。
 河口(かこう)の水が湾入(わんにゅう)していた所は、17世紀中頃、泉崎村在住の唐人(とうじん)の薦めにより、火難封じの風水として、土俵をもって潮入口を塞ぎ、溜め池(小堀(クムイ))とした。小堀は、王国時代から養魚場として使われ、後に泉崎村の管理地となり、池から上がる収入で小堀の浚渫費(しゅんせつひ)に充てたという(『南島風土記(なんとうふどき)』)。
 仲島小堀では、その後も鯉(こい)や鮒(ふな)が養殖されていたが、昭和初期には埋め立てられ、1937年(昭和12)、埋立地に済生会(さいせいかい)病院が建設された。
 一方、仲島には、1672年に「辻(つじ)」(現那覇市辻一帯)とともに花街(はなまち)が開かれた。歌人として有名な「よしや」(吉屋チルー)は、この仲島で生涯を閉じたとされる。泉崎村から仲島へは小矼(こばし)(仲島小矼)が架けられており、花街への出入り口であった。仲島は、1908年(明治41)に辻に統合・廃止され、小矼も埋立・道路拡張により消失した。
 花街廃止後、埋立により住宅地として発展した泉崎は、沖縄戦後の区画整理により、往時の街並みとは異なった住宅地となった。』




▲いつも味のある「仲島節」を聞かせてくださる大城美佐子さん。5月24日に広島は「うちな〜」さんのライブで素敵な歌声を聞かせていただいた。こうしたウタを味のある声で歌う方は少なくなった。残念なことである。

さて、大石のところに戻ろう。もう一つ残念なことがある。


この解説板は、バスセンターが建て替えられてからわかりにくい場所になってしまっている。説明板は元からあった場所である。昔のバスセンターでは、通路からよく見える場所だった。しかし今は花壇によって人はそこまで行けないようになっている。植えられた草花をかき分けて、ここまで見に来る方はまず居ないだろう。そもそも見えないのだから地元の方もあまり知らないのではないか?私も教えて頂いて知った。
とても残念な事である。

その説明板。



刻まれた文字にはこうある。

沖縄県指定史跡 天然記念物 昭和33年3月14日指定

高さ約6メートル、中央部の周囲は約25メートルの琉球石灰岩で、岩の下の方は波に侵食されてくぼんだ「ノッチ」と呼ばれる跡がある。昔このあたりが海岸であったことを示している。久米村の人々は「文筆峰」とも呼び、村の風水にかかる縁起のよい大石として珍重していた。
また、この付近に仲島の遊郭があり、多くの遊人が訪れ賑わっていた。歌人として有名な「よしや(吉屋チルー)」も、この遊郭で短くはかない生涯を終えたと伝えられている。1908年(明治41年)には、仲島の遊郭は辻に合併移転し、大正初年までにはこの付近は埋め立てられ、現在に至っている。
平成2年3月 沖縄県教育委員会 那覇市教育委員会



遊郭、花街、それ自体はとても悲しい歴史であり、女性の人権を無視した封建制度そのものである。貧しい農村から女子が売られていった。人身売買の歴史である。

だからといってその歴史そのものを「無かった」ことにはならない。

琉球の芸能文化には三つの要素があると言われる。
一つは琉球王朝を中心にした御冠船芸能といわれる中国との外交で生み出された組踊などの芸能。琉球使節と薩摩、日本文化も関わっている。

もう一つはムラ社会、各島々で行われた祭祀、若者達のモーアシビ(野遊び)、そこで生み出された芸能。

そしてこの遊郭である。中国や薩摩の人間、王族、士族、農民、漁民らが遊里として利用し、また対応した女郎達は幼い頃から芸能を学んだ。それらが複雑に絡み合って琉球の芸能文化が生まれ発展してきたという歴史は消しようがない。

説明板の一つくらいで、と言われるかもしれないが、やるせない気持ちのまま少し西にある明治橋に向けて歩いて行った。


(続く)


  

Posted by たる一 at 12:21Comments(2)島唄コラム

2019年03月04日

三村踊り節

三村踊り節
みむら うぅどぅいぶし
mimura wuduibushi
語句・みむら 本土にもあるが、沖縄では昔から近隣する二つ、ないし三つの村を並べて呼ぶことが多い。「二村落連称」などと呼ぶ。(例:「スーキカンナー」)同じ名前の村が多いことから区別するため、という説もあるが例外も多く根拠は不明。・うどぅい 踊り。


作者不詳


一、小禄 豊見城 垣花 三村 三村のアン小達が揃とて布織い話 綾まみぐなよ 元かんじゅんど
'うるくてぃみぐしく かちぬはなみむら みむらぬ'あんぐゎーたーが すりとーてぃぬぬ'ういばなし 'あやまみぐなよーむとぅかんじゅんどー
'uruku timigushiku kachinuhana mimuranu 'aNgwaataa ga suritooti nunu'uibanashi 'ayamamiguna yoo mutukaNjuN doo
小禄 豊見城 垣花という三つの村 三つの村の姉さん達が揃って布織り話 模様を間違えるなよ 元が取れず損をするぞ
語句・あんぐゎーたー姉さんたち。「あんぐゎー」は平民の若い女性を指す。+たー 達。・すりとーてぃ 揃っていて。<すりてぃ 揃って。<すりゆん 揃う。+うてぃ<うゆん → 揃って居て。・ぬぬうい 小禄紺地(うるくくんじ)を指していると思われる。小禄紺地とは、17世紀から始まった木綿布で作られた紺地の絣。1611年に儀間真常が薩摩から木綿の種を持ち帰り栽培した。そして儀間真常も木綿の生産を勧めた。木綿を琉球藍で染めることで本土にはない味わいの琉球紺絣が生まれた。戦前まで生産され九州などで好評だったが沖縄戦で伝統が途絶えた。現在復活させる活動が行われている。参照「小禄間切口説」あや 「縞。着物などの縞をいう。」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。・まみぐな <まみじゅん。「取り違える。間違える。」【沖辞】。否定形「まみがん」の命令形は「まみぐな」。・むとぅ 元。・かんじゅん「(負債などを)負う。損をする」【沖辞】。むとぅかんじゅん「(商売)で元がとれずに、損をする。」【沖辞】。



上泊 泊 元の泊と三村三村のニ才達がすりとーて塩炊き話 雨降らすなよ 元かんじゅんど
'うぃーどぅまい とぅまい むとぅぬとぅまいとぅみむら みむらぬにせたーがすりとーてぃまーすたちばなし'あみふらすなよ むとぅかんじゅんどー
'wiidumai tumai mutunu tumai tu mimura mimura nu nisetaa ga suritooti maasa tachibanashi 'amihusasuna yoo
上泊 泊 元の泊という三つの村、三つの村の青年達が揃って塩炊き話 雨を降らすなよ 元が取れず損をするぞ
語句・うぃーどぅまい 現在の「おもろまち」あたりにあった古い村。・とぅまい現在の泊。三山時代から八重山宮古などの船が着く港であり、泊と「浮島」と呼ばれた那覇の間にあった潟原という干潟に塩田があった。・ますたち 塩炊き。塩を作るための工程。たち<たちゅん 炊く、煮る。泊にあった塩田は薩摩から導入された入浜式塩田方式というもの。潮の干満を利用して海水を集め、太陽の熱と砂の毛細管現象を利用してかん水(濃度の高い塩水)を作り、それを薪燃やして煮詰めて塩を生産する方法。雨が降るとかん水も薄まり、塩炊きもできなくなる。



三、辻仲島と渡地と三村 三村の尾類小達がすりとーて客待ち話 美ら二才からはい行ちゃらなや
ちーじなかしまとぅ わたんじとぅみむら みむらぬじゅりぐゎーたーがすりとーてぃ ちゃくまちばなし ちゅらにせからはい'いちゃらなや
chiiji nakashima wataNji tu mimura mimura nu jurigwaataa ga suritooti chakumachibanashi chura nisee kara hai'icharanara
辻、仲島、渡地という三つの村 三つの村の女郎達が揃って客(を)待ち(ながらの)話 美しい青年に早く会いたいな
語句・じゅり 女郎。娼妓。「じゅり」という言葉は九州方言と関わりがあるといわれている。「<料理;‘尾類’」と書かれ旧かなは‘づり’;‘料理茶屋の女’意;‘女郎’系ではなく九州諸方言〔鹿児島でジョーリ[料理]の影響らしい〕」【琉辞】遊郭の制度は尚真王の時代、羽地朝秀(1617ー1675年)が1672年、辻、仲島に遊郭を公設したことに始まる。背景には薩摩藩からの指示があったと推測される。・はいいちゃらなや 早く逢いたいな。<はい 走って。早く。+ <いちゃゆん 会う。



四、潮平 兼城 糸満と三村 三村のアン小達が揃とて魚売り話安売りすなよ元かんじゅんど
すんじゃかなぐしく'いちまんとぅみむらぬ'あんぐわーたーがすりとーてー'いゆ'ういばなし やし'ういすなよーむとぅかんじゅんどー
suNja kanagushiku 'ichimaN tu mimura mimura nu 'aNgwaataa ga suritooti 'iyu'uibanashi yashi'uisunayoo mutukaNjuNdoo
潮平、兼城、糸満という三つの村 三つの村の姉さん達が揃って魚売り話 安売りをするなよ 元が取れず損をするぞ
語句・いゆ 魚。



五、赤田 鳥小堀 崎山と三村 三村の二才達が揃とて酒たり話麹できらしよ元かんじゅんど
'あかたとぅんじゅむいさちやまとぅみむら みむらぬにせたーがすりとーてぃ さきたりばなし こーじでぃきらしよーむとぅかんじゅんどー
'akata tuNjumui sachiyama tu mimura mimura nu nisetaa ga suritooti sakitaribanashi koojidikirashiyoo mutukaNjuNdoo
赤田、鳥小堀、崎山という三つの村 三つの村の青年達が揃っていて酒醸造話 麹をうまく醗酵させろよ 元が取れず損をするぞ
語句・あかたとぅんじゅむいさちやま 首里の赤田、鳥小堀、崎山という三つの村。泡盛の醸造が盛んだった場所で、醸造所は戦前まで10数軒あった。・さきたり 「酒の醸造」【琉辞】。「たりゆん」は「(酒や醤油)を作る」【琉辞】つまり、醸造の意味がある。・こーじでぃきらし 麹をうまく醗酵させろ。 でぃきらし<でぃきらしゅん 成功させる。 の命令形。 麹の「成功」とは「醗酵する」こと。




概要


那覇市のゆいレールに乗ると、駅ごとに民謡のオルゴール音が流れる仕組みになっていて、この「三村踊り節」は「小禄駅」に接近すると流れてくる。

軽快な早弾きで、沖縄音階で出来ている。人気の高い曲の一つだ。
舞踊曲でもある「取納奉行節」とほぼ同じメロディーである。

歌詞には沖縄本島南部の村の名前を三つ並べて併称し、その地域の名産品にまつわる話を盛り込んでいる。村名を併称するのは民謡「スーキカンナー」にもみられる。

歌詞についてみてみよう。

一番【小禄・豊見城・垣花】について

一番は「布織」をしながら世間話をしている女性達が登場する。
この辺りは小禄紺地(ウルククンジー)の産地で、1611年に儀間真常が薩摩から木綿の種を持ち帰り栽培した。そして儀間真常もこの地域での木綿の生産を勧めた。木綿を琉球藍で染めることで本土にはない味わいの琉球紺絣が生まれた。小禄紺地の特徴は小絣(模様が小さく多い)であること、何度も藍染を重ねていることに特徴があるという。戦前まで生産され九州などで好評だったが沖縄戦で伝統が途絶えた。現在復活させる活動が行われている。

機織りは女性たちの仕事だった。ヤガマーという作業をする家に集まり徹夜の作業もあった。この歌詞では「あんぐぁーたー」、若い女性達が話に気をとられて糸を間違えばやり直しをしなければならず、大損するぞ、と戒められている。

那覇の古地図に三村の位置を書き込んでみる。




(スタンフォード大学がインターネットで公開している大日本帝国陸軍測図の地形図に加筆。1910年頃ー明治40年台に測量されたもの)

古地図といっても測量されたものでは1910年頃のものが最も古い。昔の村の大まかな位置を理解するために古地図に地名を入れた。


二番【上泊・泊・元の泊】について



二番は塩炊きの話だ。地名として出てくる上泊(うぃーどぅまい)は明確ではないが現在の那覇市立泊小学校あたりではないか。はっきりしない。
「元の泊」(むとぅぬとぅまい)は通称で現在の前島(昔潟原と呼ばれる地域で、塩田があった)あたりではないか。

この二番の歌詞「塩炊き」(まーすたち)を理解するためには琉球、泊村での製塩について知らなければならない。

まずはその様子を知る手がかりとして貴重な絵が二つある。


タカヒロミヤシタザソロイスト TAKAHIRO MIYASHITA The SoloIstリング メンズシルバー系 17号 bone shaped band ring リング ブランド古着バズストア030818lXOZPuwkiTより)

「バジルホール・ペリー航海記等関係写真/拡大写真2枚あり/青い目が見た大琉球 P137 写真番号211を参照/那覇と泊の潟原には広大な入浜式塩田が広がっていた。この絵は泊潟原である。遠方に天久聖現時と泊高橋が見える。」(同上)

この絵の下側の絵は上の一部を私が拡大したもので、塩田から塩水(かん水)のようなものを甕に入れて運び手前の窯のようなものに入れている。その下には火を起こしているような人の姿も描かれている。

沖縄の塩、といえば今では「島マース」として人気があるが、その塩の歴史を見るとそれほど古いものではない。

17世紀頃、薩摩藩から製塩の方法が導入された。それまでは海水から塩を作る技術がなく、海水を直接 調理に利用したり、薩摩藩や薩摩商人から高い塩を買わねばならなかった。海水を煮詰めるには大量の薪が必要となり、山が少ない琉球の島々では薪も自由ではなかった。

泉崎の宮城芝香は薩摩の弓削次郎右衛門から入浜式の塩づくりの方法を習得し、1694年(元禄7年)に泊に塩田を作った。この入浜式は琉球諸島にも広がって行くが、米軍の統治下まで続いていたという。

入浜式とは、簡単に言えば、それまでの手で海水を砂にまいて塩分濃度を高めるやり方ではなく、潮の干満を利用してかん水(塩分濃度の高い水)を作る方法。それを炊いて塩を作る。

さてもう一つの絵は「琉球貿易港図屏風」だ。薩摩藩への土産として琉球の絵師達が描いた物だとみられている。そこに泊潟原での塩田が描かれている。


「琉球貿易港図屏風」(浦添市美術館蔵)全体図


部分図。地名を書き込んである。


Google mapからの写真だが、塩田があった潟原は現在は前島という地名だ。那覇市前島1丁目3の公園に「泊塩田之跡碑」がある。



三番【辻・仲島・渡地】について

この三つの遊郭が「仲島節」でも取り上げた「沖縄志」(伊地知 貞馨著)に描かれている。沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫にある。

伊地知(1826-1887)は薩摩藩出身の明治時代の官僚だ。この伊地知が1877(明治10)年に書いたこの本の第1巻に「那覇港圖」がある。





現代の地図、google mapに地名を重ねてみた。




「じゅり」と呼ばれる琉球王朝時代の女郎については、これまでも「さらうてぃ口説」や「仲島節」などでも取り上げてきた。遊郭が制度として薩摩藩からの要請で整備されたということは「じゅり」という言葉が九州方言の「じゅーり」(料理)からきていると言われていることにも表れている。

「さらうてぃ口説」で書いたが、遊郭が長年にわたる女性蔑視、人身売買の根源であることは歴史的に間違いない。しかし、そこで生み出された芸能、文化はきわめて琉球文化を理解する上で重要であるということは私などが言うまでもないことであろう。

例えば、吉屋チルーという琉球時代の女流詩人は読谷に生まれ8歳のとき那覇仲島へ遊女として身売りされた。このように大半が地方の貧困層、つまり士族以外の平民の娘が身売りさせられた。女郎は琉球では「ジュリ」と呼ばれた。遊郭は自治制度があり女性だけで管理され、ジュリアンマー(女郎の抱え親)と呼ばれる人々が母子関係を結び、歌や三線、舞踊などの芸事を教えていった。

遊郭は各地にあったが、尚真王の時代、羽地朝秀(1617ー1675年)が1672年、辻、仲島に遊郭を公設した。背景には薩摩藩からの指示があったと推測されるが、遊郭の管理を王府として行う事で風紀の乱れを防止しようとした。そして琉球王朝が廃藩置県で沖縄県となり、太平洋戦争で米軍によって空襲を受けるまで辻、仲島の遊郭は存在し続けたのである。

沖縄語辞典(国立国語研究所編)には「辻」の項でこうある。

「[辻]那覇にあった遊郭の名。本土人・中国人・首里・那覇の上流人を相手とした高級な遊郭であった。那覇にはciizi,nakasima[中島],wataNzi[渡地]の三つの遊郭があり、ciiziが高級で、nakasimaは首里・中島相手、wataNziはいなか相手と、それぞれ、客の層が違っていた」

本土人とは主に薩摩藩の役人で、中国人とは冊封使のことである。それ以外、商人なども含まれる。遊郭で展開された琉球芸能は表に出ることがほとんどなく記録も非常に少ない。

それでも琉球古典音楽や舞踊、さらには地方の祭祀や芸能も含め、琉球芸能の重要な部分を構成していたと言われている。琉球王朝の文化である古典音楽も含め遊郭の中で展開された芸能との関わりは無視できない。

この三番の歌詞が省略されて歌われることも多い。


四番 【潮平・兼城・糸満】について

糸満は昔から沖縄を代表する漁師町であり、戦前までは大型追い込み漁が続けられていた。
漁をするのは男性で、それを買い、さらに町で高く売る役目は多くは女性だった。
したがって、この四番の歌詞の主人公は女性となっている。

三村の位置を確認しよう。




五番 【赤田・鳥小堀・崎山】について


「首里古地図の全体図」【沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫】より「赤田、鳥小堀、崎山」の地名を書き入れた。

首里三箇(しゅりさんか)」と呼ばれ、この三つのむらでは琉球王朝により酒(泡盛)の醸造が許可された。

当時の醸造所で、現在ものこっているのは瑞穂酒造、咲元酒造、瑞泉酒造、石川酒造場、崎山酒造廠、比嘉酒造、識名酒造。

ほとんど移転してしまい、現在あるのは咲元酒造(鳥堀)、瑞泉酒造(崎山)、識名酒造(赤田)の三醸造所になっている。


琉歌との関係

ところで「琉歌大成」にはこの唄の元になると思われる琉歌は一首だけある。

小禄豊見城垣花三村あんに誰が捨てて布織りばなし
うるく とぅみぐしく かちぬはな みむら あんにたがしてぃてぃ ぬぬういばなし

しかし、この本では珍しく、大意は「不勘」(不詳の意味)と書かれている。「あんに」の意味が不明なのだと思われる。





  

Posted by たる一 at 12:30Comments(0)ま行沖縄本島

2019年02月18日

小禄間切口説

小禄間切口説
うるくまじり くどぅち
'urukumajiri kuduchi
語句・うるくまじり 現在の那覇市小禄に当たる。間切(まじり)とは琉球王国時代の行政区の一つ。「国」の下の行政単位だから都道府県くらいの意味。実際の規模は市町村くらいだった。・くどぅち「口説」(くどぅち)とは、室町・江戸時代に流行した「口説」(くどき)の影響を受けていて、本土のそれは歌舞伎、浄瑠璃などで情景や叙事、悲哀や恨みなどを一定のメロディーで繰り返して「説く」もの。17世紀以降、薩摩藩による琉球支配の時代に琉球に伝わった。七五調で大和言葉(のウチナーグチ読み)を一部使う特徴がある。
小禄間切の口説


歌詞は 「沖縄民謡口説大全集」(沖縄芸能出版 滝原康盛編著)[以下【口説全集】と略す]を参照した。



一、小禄間切ぬ真ん中に 白髪御年寄いめんそち 釣竿かたみてぃ浜下りてぃ
うるくまじりぬまんなかに しらぎうとぅすい いめんそち ちんぶくかたみてぃはまうりてぃ
'uruku majiri nu maNnaka ni shiragi 'utusui 'imeeNsoochi chiNbuku katamiti hama 'uriti
小禄間切の真ん中に白髪のお年寄りお集まり下さって釣竿担いで浜に降りて
語句・いめんそち <いめーんせーん。「おいでになられる。いらっしゃられる。いる・行く・来るの敬語。」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。いめーんせーんの連用形。・ちんぶく 釣竿。



二、浜に育ちゅる浜千鳥 干瀬に育ちゅる あじけー貝 海山豊かな我が間切
はまにすだちゅるはまちじゅや ふぃしにすだちゅるあじけーがい うみやまゆたかなわがまじり
hama ni sudachuru hamachijuyaa hwishi ni sudacyuru 'ajikee gai 'umiyama yutakana waga majiri
浜に育つ浜千鳥 珊瑚のリーフに育つシャコ貝 海山が豊かな我々の間切
語句・ふぃし 「満潮の時は隠れ、干潮になると現れる岩や洲」【沖辞】。珊瑚のリーフ(珊瑚礁)と言っても問題はない。・あじけー シャコ貝。身はコリコリして美味い。貝殻は魔除けに使う。



三、先じや村々尋にやい 委細に話さば聞ち分きてぃ 朝夕忘るな我が子孫
まじやむらむらたじにやい いせにはなさば ちちわきてぃ あさゆーわしるな わがしすん
maji ya muramura tajiniyai 'isee ni hanasaba chichiwakiti 'asayuu washiruna waga shisuN
まずは村々を調べて詳しく話すので聞き理解して朝夕忘れるなよ我が子孫
語句・いせー 詳しく。



四、白浜前なす大嶺や 男女かりゆし肝合わす 海山豊かに栄えゆく
しらはまめーなす うふんみや だんじょかりゆし ちむあわす うみやまゆたかにさかいゆく
shirahama mee nasu 'uhuNmi ya danjo kariyushi chimuawasu 'umiyama yutaka ni sakai yuku
白浜を前にする大嶺は男女めでたく皆で心を合わせる 海山も豊かに栄えて行く
語句・だんじょ 「だんじゅ かりゆし」の「だんじゅ」に「男女」という当て字をしたのではないか。口説はヤマト口が混ざることを拒否しないが、発音はウチナーグチとなる。そうすれば「だんじょ」ではなく「断然」という意味の「だんじゅ」となる。(参照「だんじゅかりゆし」)しかし【口説全集】の歌詞に従う。・さかい 大和口の「さかえ」という可能性もあるが、これも「さかえ」ではなく発音は「さかい」(栄え)としたい。



五、田畑豊かな宮城 人ぬ心ん悠々とぅ 黄金冬瓜ん実美らしゃ
たはたゆたかな なーぐしく ひとぅぬくくるんゆーゆーとぅ くがにしぶいんないじゅらしゃ
tahata yutakana naagushiku hitu nu kukuruN yuuyuu tu kugani shibuiN naijurasya
田畑が豊かな宮城人の心も悠々としていて 大切な冬瓜の実もよく実っている
語句・しぶい 冬瓜。



六、真風ぬ具志村平原や 地味ん豊かに満作ぬ 働く人ん豊かなリ
まふぇぬぐしむらひらばるや じみんゆたかにまんさくぬ はたらくひとぅんゆたかなり
mahwee nu gushimura hirabaru ya jimiN yutaka ni maNsaku nu hataraku hituN yutakanari
南風が吹く具志村の平原は土地が肥えて豊かに満作となり働く人も豊かである
語句・じみ 地味(ちみ)とは土地が肥えていること。



七、芋種豊作高良村 人ぬ心ん福々とぅ 子孫牛馬ん優りゆく
んむすほーさくたからむら ひとぅぬくくるんふくぶくとぅ なしぐゎんぎゅーばんすぐりゆく
'Nmusu hoosaku takara mura hitu nu kukuruN hukubuku tu nashigwaN gyuubaN suguri yuku
甘藷(芋)が豊作の高良村 人の心も福々としていて子どもも牛馬も優れていく



八、道ぬ狭さや松川村 縦横広く明々とぅ 開く風水ぬ栄えさみ
みちぬしまさやまちがーむら たてぃゆくひるくあかあかとぅ ひらくふんしぬさかえさみ
michi nu shimasa ya machigaa mura tatiyuku hiruku 'aka'akatu hiraku huNshi nu saki sami
道が狭いと言えば松川村だ 縦横に広く明々と開く風水も良くて村が栄えるのである
語句・ふんし「家屋・墓地などの位置のよしあしを占うこと。またそのよしあし。家相。風水。」【沖辞】。村や間切などの風水も調べた。・さみ「・・なのだぞ。・」



九、二才達揃わい宇栄原や 西ん東ん肝合わち 互に励むしたぬむしや
にせーたーしなわいういばるや いりんあがりんちむあわち たげにはぎむしたぬしむや
niseetaa shinawai 'uibaru ya nishiN higashiN chimu 'awachi tagee ni hagimushi tanumushi ya
青年たちが揃っている宇栄原は西も東も心を合わせて互いに励んで頼もしいことだ



十、村ぬ大ぎさや小禄村 業ん数々分守てぃ内外揃てぃ栄え行く
むらぬまぎさやうるくむら わざんかじかじぶーまむてぃ うちすとぅするてぃさかえゆく
mura nu magisa ya 'uruku mura wazaN kajikaji buu mamuti 'uchisutu suruti saki yuku
村が大きいのは小禄村だ 仕事も多く人夫も守り村の内外揃って栄えて行く
語句・わざ仕事。・ぶー 「【夫役(ぶやく)・賦役(ふえき)】人夫」【琉球語辞典(半田一郎)】。



十一、水ぬ豊かな田原村 人ぬ心んうるわしく 往に報いてぃ道広し
みじぬゆたかなたばるむら ひとぅぬくくるんうるわしく おーにむくいてぃみちひるし
miji nu yutakana tabaru mura hitu nu kukuruN uruwashiku 'oo ni mukuiti michi hirushi
水が豊かな田原村は人の心も麗しく往来も多いことに報いるために道が広い
語句・たばる 田原は湖城、松川、堀川と共に新しい村。・うるわしく 大和口であろう。・おー ウチナーグチの辞書では「王」や「奥武島」くらいしか対応しない。ここでは「往来」の「往」とした。



十二、言葉甘さや金城 老も若衆ん打ち揃てぃ 譲い結びぬ肝清らしゃ
くとぅばうまさやかなぐしく ういんわかしゅん うちするてぃ ゆじゅいむすびぬちむじゅらしゃ
kutuba umasa ya kanagushiku 'wiiN wakashuN 'uchisuruti yujui musubinu chimu jurasha
言葉が上手な金城 老いも若きも揃って 譲りながら心を結んで心は純粋だ
語句・うまさ 大和口。金城からは優秀な人材を多く輩出したということからか。



十三、人ぬ温和赤嶺や 互に栄えや道一ち 結び固みどぅ栄えさみ
ひとぅぬうとぅなさあかんみや たげにさけーやみちてぃーち むしびかたみどぅさかいさみ
hitu nu 'utunasa 'akaNmi ya tagee ni sakee ya michi tiichi musibi katami du sakaisami
人がおとなしいのは赤嶺。互いに栄えるのは道を一つに結んで固めているからこそ栄えるのである。
語句・うとぅなさ <うとぅなしゃん。「おとなしい」【沖辞】。



十四、遊び清らしゃぬ安次嶺や 神に奉献真心に 子孫牛馬ん道広く
あしびじゅらしゃやあしんみや かみにほーけんまぐくるに なしぐゎんぎゅーばんみちひるく
'Ashibi jurashanu 'ashiNmi ya kami ni hookeN magukuru ni nashigwaaN gyuubaN michi hiruku
神遊び(かみあしゃぎ)も盛んな安次嶺は 神に真心を献上し 子ども牛馬も前途洋々だ
語句・あしび ここでは祭事、神事を指す。



十五、大根豊作す鏡水や 日々ぬ励みんたゆみなく 行末広くたのもしや
でーくにーゆからすかがんじやひびぬはぎみんたゆみなく ゆくしーひるくたぬむしや
deekunii yukarasu kagaNji ya hibi nu hagimiN tayuminaku yukushii hiruku tanumushiya
大根(鏡水大根)を多く稔らせる鏡水は日々の農作業にもたゆみなく励み 村の行く末も広く頼もしい事だ
語句・デークニー 大根。かつては大根に加え多くの農産物を国頭方面や近郊都市に送り出す都市近郊型の経済があった。



十六、巡り廻やい当間村 手墨学問道広く 花ぬ遊びん程々に
みぐりみぐやいとーまむら てぃしみがくむんみちひるく はなぬあしびんふどぅふどぅに
miguri miguyai tooma mura tishimi gakumun michi hiruku hana nu ashibiN huduhudu ni
巡りめぐって当間村 勉学に励んで道は広く (でも)華やかな遊びはほどほどに
語句・てぃしみ 学問。勉学。・はなぬあしび 華やかな遊び。こちらの「遊び」は遊郭や毛遊びなどの交遊を表す。



十七、下りてぃ上ゆる嘉増坂 又ん上ゆる蚊坂 儀間や湖城下に見てぃ
うりてぃぬぶゆるかましびら またんぬぶゆるがじゃんびら じーまやくぐしくしたにみてぃ
'uriti nubuyuru kamashibira mataN nubuyuru gajaNbira jiima ya kugushiku shita ni miti
下がって登る嘉増坂 またさらに登るとガジャン坂 儀間や湖城を下に眺めて
語句・じーま儀間真常



十八、北に聳ゆる住吉森 南にとぅがとる上ぬ棚 儀間ぬ大親 徳慕てぃ
にしにすびゆるしーしもー ふぇーにとぅがとーるうぃぬたな じーまぬうふうや とぅくした
てぃ
nishi ni suboyuru shiishimoo hwee ni tugatooru wii nu tana jiima nu 'uhu 'uya tuku shitati
北にそびえる住吉森 南にとがっている上の棚 ご先祖様である儀間の徳を慕って





十九、甘藷種豊かに 那覇四町 大和輸出ゆる黒砂糖 小禄紺地ん誇リさみ
んむすゆたかに なふぁゆまち やまとぅぬぶゆるくるざーたー うるくくんじん ふくりさみ
'Nmusu yutakani nahwa yuumachi yamatu nubuyuru kuruzaataa 'uruku kuNjiN huluri sami
芋の実りも豊かに那覇四町(西、東、泉崎、若狭)に売り、大和に輸出する黒砂糖、小禄紺地も誇りであるぞ
語句・うるくくんじ 17世紀から始まった木綿布で作られた紺地の絣。1611年に儀間真常が薩摩から木綿の種を持ち帰り栽培した。そして儀間真常も木綿の生産を勧めた。木綿を琉球藍で染めることで本土にはない味わいの琉球紺絣が生まれた。戦前まで生産され九州などで好評だったが沖縄戦で伝統が途絶えた。現在復活させる活動が行われている。



二十、行末頼む村人よ 意見寄事肝染みてい エイ 時代ぬ流りに進み行き いざや興さん小禄村
ゆくしーたぬむむらびとぅよ いちんゆしぐとぅちむすみてぃ えい じだいぬながりにすすみゆき いざやうくさん うるくむら
yukushii tanumu murabitu yoo 'ichiN yushigutu chimu sumiti eei jidai nu nagari ni susumiyuki 'iza ya 'ukusaN 'urukumura
将来を望む村人よ 意見や昔からの言い伝えを心に染めて 時代の流れに進んで行き いざや興そう小禄村
語句・ゆしぐとぅ 昔からの言い伝え。伝承。



コメント

このブログを読む方には那覇空港を利用する方も多いに違いない。

しかし那覇空港も、ゆいレールに乗って次の駅赤嶺も、もちろん次の小禄も昔は「小禄間切」であったことはあまり意識される方少ないのではないだろうか。

そして、あの空港があったあたりは、昔綺麗な砂浜と大根の畑があったこと。

さらに、ゆいレールでは車内に駅ごとに音楽が流れるが、小禄駅は「三村踊り」(みむらうどぅい)と言う曲が流れる理由をご存知だろうか?

実は私も正直に言えばこの口説に出会うまでは「小禄」について知らないことばかりだった。

皆さんと一緒に「小禄間切口説」を見ながら、歴史と今について考えてみたい。

この口説との出会い

この口説を取り上げるきっかけになったのは、この口説十五番の歌詞をガラスの置物に書いた置物との出会いからだった。

十五、大根豊作す鏡水や 日々ぬ励みんたゆみなく 行末広くたのもしや

広島の沖縄料理屋「うちな〜」の大将は小禄は鏡水のご出身。
ある時この置物を見せてくれた。名物の鏡水大根(カガンジデークニー)を模したミニチュアが横に付けられている。



大将の話で、小禄の人々の門中意識の高さ、地域の結びつきが強いことなども伺って、それではこの口説はどんなものなのか、調べてみたいと思った。

「小禄間切口説」について

二十番にも及ぶ長い口説である。

口説(くどき)は江戸時代に日本で流行したウタの一種だが、琉球に持ち込まれ組踊の情景描写、舞踊などで使われるようになり現在にまで継承され今も沖縄では愛されている。



上述したように歌詞は「沖縄民謡口説大全集」(沖縄芸能出版 滝原康盛編著)を参照した。

この本、口説大全集と言う名の通り99もの口説を収集し紹介されている。
若干の誤植、表記の揺らぎなどがあるが、それでも価値は高い。

小禄間切の歴史と概要

小禄間切は1673年に真和志真切と豊見城真切から分割されてできた。小禄・儀間・金城(真和志間切から)と、赤嶺・安次嶺・当間・大嶺・具志・高良・宇栄原・宮城(豊見城間切から)の合計11カ村からスタートした。その後、湖城・松川・田原・堀川という4ヵ村を新設。合計15カ村となる。

1908年に小禄間切から小禄村になる。1933年から海軍によって飛行場が作られ、戦後は米軍によって大嶺、当間などが接収。1954年に那覇市に編入されて小禄村は廃止。現在は十九の町名がある。

小禄間切口説の特徴

一番から三番までは、いわゆる口上、これからどのような口説を述べるかの前提である。
四番から十九番は各村の特徴や産業、人々の生業や特徴が織り込まれている。
二十番がまとめとなる。

語数は七、五の繰り返しを三回。
つまり、七五、七五、七五。
二十番だけが、七五、七五、(エイ)七五、七五。(三回目の七は字余りで八)
三線の手は「上り口説」と同じだと思われる。

小禄紺地と三村踊り

三村踊り(クリックで本ブログの「三村踊り」に行く)とは、ご周知のようにこの歌詞から始まる。

小禄 豊見城 垣花 三村 三村のアン小達が揃とて布織い話 綾まみぐなよ 元かんじゅんど
小禄 豊見城 垣花(の)三つの村 三つの村の姉さん達が揃って布織り話 模様を間違えるなよ 元が取れず損をするぞ

この娘さん達が織っているのは、まさにこの口説に出てくる「小禄紺地」なのである。

新聞などによれば戦争で途絶えた小禄紺地の技術が長年の努力によって近年復活したと言うことである。小禄の隣町の南風原町には南風原絣がある。こちらは絹の生地であるが、小禄紺地は木綿である。庶民の着物といえば木綿であろう。
いつか小禄紺地の実物を見てみたいものだ。



1920年(明治43年)に日本陸軍が作り、スタンフォード大学が公開している地図に、小禄間切の12カ村の名称を筆者が書き込んだもの。




国土地理院の地図。ほぼ現在の様子。
戦前は旧日本海軍が小禄飛行場を建設し、住民は他の字への強制的な移住をさせられた。

沖縄戦では徹底的にに米軍によって空爆、艦砲射撃の的となり激戦地となり、その後米軍基地として小禄の多くの部分が米軍の軍用地となった。

そして、沖縄の本土復帰後、空港と自衛隊の基地の敷地となった。

多くの犠牲と地元の住民の方々の苦労の上に今の空港や多くの施設が成り立っていることを忘れてはならない。












  

Posted by たる一 at 12:59Comments(0)あ行沖縄本島

2019年01月12日

ヨーテー節

ヨーテー節
語句・よーてー ウタの中に出てくる囃子言葉。「ヨー」はよく使われる。「てー」には「と言い」くらいの意味がある。


《作者不明。歌詞は「島うた紀行」(仲宗根 幸市編著)より》


一、昔ばんしんか勘定納に下りて(ヨー)天馬打ち出じゃち屋我地渡ら (ヨーテー ジントー)屋我地渡ら
んかし ばんしんか はんてぃな にうりてぃ(よー)てぃんま うち んじゃち やがじじま わたら(よーてー じんとー)やがじわたら
《括弧は囃子言葉。以下、括弧も繰り返しも省略する》
Nkashi baN shiNka haNtina ni uriti tiNma ’uchiNjachi yagaji jima watara
昔(番所の)臣下たちが勘定納に降りて伝馬船を出して屋我地島に渡ろう(とした)
語句・ばん 「番所」の「ばん」であろうか。・しんか「臣下。手下。農村では転じて家族の意にも用いる」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。仲間という意味にも使う。・てぃんま「伝馬。はしけ」【沖辞】。小舟の事で渡し船として使われていたもの。・やがじ 現在の名護市屋我地島の事。



二、うとうに響まりる平松ぬ下や 毎夜若者ぬ 遊びどぅくる
うとぅにとぅゆまりる ひらまちぬ しちゃや めーゆるわかむんぬ あしびどぅくる
’utu ni tuyumariru hiramachi nu shicha ya meeyuru wakamuN nu ’ashibi dukuru
有名な平松の下は毎晩若者が遊ぶ場所だ
語句・うとぅにとぅゆまりる 有名な。名声が世に鳴り響いているような。・ひらまち 「枝が低く平らに広がった松」【沖辞】。ふぃらまち、とも言う。我部平松が有名。



三、我部ぬみやらびぬ歌にうち惚りてい 羽地ばんしんか毎夜通て
がぶぬみやらびぬ うたに うちふりてぃ はにじばんしんか めーゆるかゆてぃ
gabu nu miyarabi nu ’uta ni `uchihuriti haniji baN shiNka meeyuru kayuti
我部の娘のウタに惚れて羽地の仲間は毎晩通って
語句・みやらび「農村の未婚の娘をいう」【沖辞】。



四、手拭やこーがき 舞や小んできてぃ がまく小ぬ美らさチンと見惣り
てぃーさじやこーがーき もーや ぐゎーん でぃきてぃ がまくぐゎーぬ ちゅらさ ちんとぅみぶり
tiisaji ya koogaaki mooyaa gwaaN dikiti gamaku gwaa nu churasa chiNtu miiburi
手ぬぐいは頰かむり 踊りは出来て腰つきの美しさに ちょうど見惚れて
語句・こーがーき 「ほおかむり。頭からほおにかけて手ぬぐいをかぶること。農民の習俗で、首里那覇では酒宴の席で、踊りの時にするものが多かった」【沖辞】。・がまくぐゎー「腰回りのくびれている部分」【沖辞】・ちんとぅ「ぴったり。きっちり。ちょうど」【沖辞】。



五、朝凪と夕凪屋我地漕じ渡てい 我部ぬ平松に思い残ち
あさどぅりとぅ ゆーどぅり やがじ くじわたてぃ がぶぬひらまちに うむいぬくち
’asaduri tu yuuduri yagaji kuji watati gabu nu hiramachi ni ’umui nukuchi
朝の凪と夕方の凪の時に屋我地島に漕いで渡って 我部の平松に思いを残して(別れて)
語句・あさどぅり 「凪」は「とぅり」。風が止んで船が出しやすい時間。


コメント

作者不明。
川田松夫氏が「西武門節」の歌詞を乗せた本歌が、この「ヨーテー節」だった。
伊江島民謡の「ましゅんく節」も「ヨーテー節」と呼ばれることがあるが別の曲である。

沖縄県北部の青年達と屋我地島の娘達と繰り広げられたモーアシビの様子が歌われている。

「はんてぃな」について

一番に出てくる「勘定納」(はんてぃな)は琉球王朝時代、間切番所が置かれた羽地で生産された米を薩摩に運び出す港のひとつがあった場所である。「仕上世米」と呼ばれた薩摩藩への上納は四津口(那覇・湖辺底・運天・勘手納)と呼ばれる港から大和船に積まれて行った。港には薩摩藩に上納する物資を保管する倉庫ー定物蔵が置かれた。

「勘定納」の名前は、そこで「上納物」を「勘定」し首里王府に報告していたことから付けられた名前だと言われている。明治期、戦前まで積み出し集積港として機能していたようだ。当然、港や倉庫には若い役人、人夫が集まる。その若者たちと対岸の屋我地島のむすたちとのモーアシビ の情景が歌いこまれているのが、このヨーテー節だ。

「勘定納」は首里那覇では「かんてぃな」と発音するが、今帰仁言葉では「k」が「h」となるためにkaNtina→haNtina
「はんてぃな」となる。

現在のはんてぃなと我部

位置関係をグーグルマップに書き込んでみた。



現在の仲尾から仲尾次あたりが「はんてぃな」と呼ばれていた。

我部の平松

「我部の平松」にヨーテー節の歌碑が立っている。車で行くと分かりにくいが、今帰仁から行けば我部公民館を過ぎて数十メートル東に行った所を北に入る。


(筆者撮影 2018年12月)



ヨーテー節の五番の歌詞が刻まれている歌碑。残念ながら後ろにあった松は折れていた。


近くには美しい松の木があった。中には赤く松枯れしたものも。




歌碑の周りは広い公園となっている。ここが昔モーアシビの場所だったのだろうか。








  

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2018年10月11日

ノーウーマンノークライ

ノーウーマンノークライ

原曲 (作詞 作曲 ヴィンセント・フォード。歌 ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ)

作詞 知名 定男 うた ネーネーズ



NO WOMAN NO CRY NO WOMAN NO CRY
NO WOMAN NO CRY NO WOMAN NO CRY


里前に千惚りアヒ小に万惚り思い思まーてぃ五年
毛遊びぬ歌声ぬ秀らさ 三線弾ちゅる姿ぬ秀らさ
此ぬ世ぬ果報な者や我んどぅやてーる

(発音)
さとぅめに しんぶり あふぃぐゎーにまんぶり うむいうまーてぃ ぐにん
もーあしびぬうたぐぃーぬ しゅらさ さんしんふぃちゅるしがたぬ しゅらさ
くぬゆーぬ くゎふーなむん や わんどぅやてーる
satumee ni shiNburi 'ahwiigwaa ni maNburi ’umui ’umaati guniN
moo’ashibi nu ’utagwii nu shurasa saNshiN hwichuru shigata nu shurasa
kunu yuu nu kwahuuna muN ya waN du yateeru
(意味)
彼に千も惚れ 兄さんに万も惚れ(彼に惚れきってしまった)想い思い焦がれて5年 毛遊びでの歌声が愛しくて 三線弾く姿が愛しくて この世で幸せ者と言えば私しかいないって
語句・さとぅめー 女性から愛する男性に対する呼称。愛する貴方。・あふぃぐゎー 兄さん。ここでは里前と同人物。【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)には「一番下の兄。すぐ上の兄さん。平民についていう」とある。・しんぶり千惚れ。この語句は沖縄語辞典にはない。「まんぶり」は「首ったけ。まる惚れの意」【沖辞】とある。つまり、「しんぶり」は「まんぶり」に「万惚れ」と当て字をすることで出来た造語ではないだろうか。つまりワンセットで「千ぶり万ぶり」、かなり惚れていること。・もーあしび「農村で夜、若い男女が野原(moo)に出て遊ぶこと」【沖辞】。・しゅらさ <しゅーらーしゃん。しゅーらーさん。「しおらしい。かわいらしい。愛らしい」【沖辞】。体言止めなので「なんと愛しいことよ!」。・わんどぅやてーる 直訳すれば「私だけだって」。「てー」は「って」「だって」間接話法。



NO WOMAN NO CRY NO WOMAN NO CRY
NO WOMAN NO CRY NO WOMAN NO CRY


里前に千惚り アヒ小に万惚り思い思まーてぃ五年
久葉ぬ下に約束どーやー たがんなヨ
太陽ぬ落てぃれー急くに来ーよー たがんなヨ
此ぬ世ぬ果報な者や我んどぅやてーる
毛遊びぬ前立ちアヒ小 あんうぃりきさ舞ーゆがや
他島ぬ人んくーよーくーよー アンマーんくーよーくーよ
掛き弾ち小ぬちびらーさ あんうぃりきさ弾んちゅがや
他島ぬ人んくーよーくーよー 主アンマーんくーよーくーよ

(発音)
さとぅめに しんぶり あふぃぐゎーにまんぶり うむいうまーてぃ ぐにん
くばぬしちゃに やくすく どーやー たがんなよー
てぃーだぬ うてぃれー しぐにくーよー たがんなよー
くぬゆーぬ くゎふーなむん や わんどぅやてーる
もーあしびぬ めーだちあふぃぐゎー あんうぃーりきさ もーゆがや
たしまぬちゅんくーよーくーよー すーあんまーんくーよーくーよ
かきびちぐゎーぬちびらーさ あんうぃりきさ はんちゅがや
たしまぬちゅん くーよーくーよー すーあんまーんくーよーくーよ
satumee ni shiNburi 'ahwiigwaa ni maNburi ’umui ’umaati guniN
kuba nu shicha ni yakusuku doo yaa tagaNnaa yoo
tiida nu ’utiree shigu ni kuu yoo tagaNna yoo
kunu yuu nu kwahuu na muN yaa waN du yateeru
moo ’ashibii nu meedachi ’ahwigwaa ’aN wiirikisa mooyu ga yaa
tashima nu chuN kuu yoo kuu yoo suu ’AnmaaN kuu yoo kuu yoo
kakibichigwaa nu chibiraasa ’anwirikisa haNchu ga yaa
tashima nu chuN kuu yoo kuu yoo suu ’AnmaaN kuu yoo kuu yoo
(意味)
彼に千も惚れ 兄さんに万も惚れ(彼に首ったけになって)
クバの木の下で会う約束だよ 間違えないようにね
太陽が落ちたらすぐにおいでね 間違えないようにね
この世で幸せ者と言えば私だってば
毛遊びで前に立っているお兄さん あんなに愉快に踊るかねえ
他の村の人もおいで!おいでね!お父さんお母さんもおいで!おいでね!
掛け弾き(三線のテクニック)の素晴らしい事!あんなに楽しく弾(はじ)くかねえ!
他の村の人もおいで!おいで!父さんも母さんもおいで!おいで!

語句・やくすく 約束。・たがんなよー 間違えないでね。<たがゆん。「違う。たがえる。『たがう』に対応する」【沖辞】。否定の命令形。・めーだち 前に立つ。「めー」には空間的な「前」だけでなく、敬意を表す意味、時間的な「前」「最初」という意味もある。・うぃきりさ 面白いことよ!愉快なことよ!<うぃーりきさん。'wiirikisaN 「面白い。楽しい。愉快である。」形容詞で、体言止め「さ」で終わると感嘆表現ではあるが、ここでは「愉快に」「面白く」と副詞的に訳した。・たしま 他の村。シマとは村のこと。・ちゅ 人。「っちゅ」という発音にもなる。・くーよー 来いよ。<ちゅーん。来る。の命令形は「くー」。・すー あんまー お父さん、お母さん。・かきびちぐゎー 三線の弾き方のテクニックの一つ。爪を引っ掛けるように弾くがそのタイミングや速さなどで熟練を要する。・はんちゅがやー 弾(はじ)くかねえ。<はんちゅん。「はじく。弾力によってとばす」【沖辞】。


テンシトゥリトゥテンヨーテンヨー テンシトゥリトゥテンヨーテンヨー
テンシトゥリトゥテンヨーテンヨー テンシトゥリトゥテンヨーテンヨー
テンシトゥリトゥテンヨーテンヨー テンシトゥリトゥテンヨーテンヨー
テンシトゥリトゥテンヨーテンヨー テンシトゥリトゥテンヨーテンヨー

teeN shituritu teeN yoo teeN yoo
語句・しとぅりとぅてん 三線の擬音。・てんよー 「てんよー節」の囃子に「てんよーてんよーしとぅりとぅてん」があり、それを模した囃子言葉だろう。

あんすかな
あんすかなー
’aNsuka naa
そうするかい?
語句・あんすかなー あんす<あんしゅん。あんすん。そうする。+なー。「かい。かねえ」【沖辞】。

NO WOMAN NO CRY NO WOMAN NO CRY NO WOMAN NO CRY NO WOMAN NO CRY

待ちかんてぃーしみんなよーNO WOMAN NO CRY
まちかんてぃー しみんなよー
machikaNtii shimiNna yoo
私を待ちぼうけにしないでね
語句・まちかんてぃーまちかねる→待ちぼうけ。・しみんな させないで。<しみゆん。〜させる。の否定の命令。


待ちかんてぃーしみんなよーNO WOMAN NO CRY
待ちかんてぃーしみんなよーNO WOMAN NO CRY
NO WOMAN NO CRY NO WOMAN NO CRY




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解説

知名定男さんがネーネーズ(初代)のために、「ノー・ウーマン、ノー・クライ」(ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ)の曲にウチナーグチの歌詞を乗せた。軽快なレゲエのリズムの曲とウチナーグチの歌詞が絶妙にマッチしている。

原曲の「ノー・ウーマン、ノー・クライ」の意味は、Wikipediaによると、
『繰り返されるフレーズ「No Woman, No Cry」はジャマイカ・クレオール語に直すと「No, woman, nuh cry」と表記される。「nuh」は「don't」を縮めたジャマイカの言葉。つまりマーリーはこの曲で「No, woman, don't cry」と歌っていることになる』

したがって「泣かないで」ということだ。

民謡「てんよう節」の囃子「てんよう てんよう しとぅりとぅてん」を元にしたと思われる「てんしとぅりとぅ てんよう てんよう」が実に効果的なリズムを醸し出している。

歌詞には、夜に野原で若い男女が遊んだモーアシビの光景と、女性の彼氏への熱い想いが描かれている。

女性である主人公の想う人はモーアシビの「めーだちあふぃぐゎー」(前に立つ兄さん)というのは「モーアシビ の頭(かしら)」とも言われ、モーアシビ の場で踊らせても一番うまい、そして三線では民謡を奏で、舞踊の地謡も務める三線弾き(さんしんひちゃー)のリーダーのことであろう。

少し横道にはそれるが、そのモーアシビ の情景とはどんなものだったのだろうか。

このウタの理解のために、当ブログの「越来節」で取り上げた「モーアシビ のイメージ」を一部再掲する。

モーアシビのイメージ

『しまうた』(一九二二年)所収『ヤンバル今帰仁のモーアシビ(玉城鎮夫)』より。
このパンフレットには1930年代以前のモーアシビの様子が描かれている。

「兼次部落の毛遊び」
まず毛遊びについての呼称について
(イ)毛とは野原の呼称である。
(ロ)場所は第一条件として部落のはずれ
(ハ)部落民の安眠の妨害にならない距離その他地形の平坦地であること。
(二)月夜が多く実施され闇の夜の星空の下で、たまには灯火もあった(砂糖小屋の中で)
(ホ)時刻、夏は9時半ごろから10時ごろまでには集合した。その他の季節はそれより平均して1時間か1時間半くらい早く集まった。
(ヘ)製糖期や田植前後の準備と田植えの諸作業期には中断が多かった。
(ト)人員は20人から特別に多い時は30人くらい。
(チ)三味線弾きは二、三名が多かった。
(リ)集合隊形は男女対向と円座形で座った。
(ヌ)毛と雖も芝生や雑草の少ない所にはその近くから草を手で千切って敷いた。
(以下略)』

こうしたモーアシビは1930年代からの日本の軍国主義への傾注とともに「風紀を乱す」と言う名のものとに取り締まりの対象となり警察などによって存続できなくなった。


初代ネーネーズのアルバムから最近のネーネーズのアルバムにも収録されている。

  

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2018年09月26日

仲島節

仲島節
なかしまぶし
nakashima bushi
語句・仲島 「[中島]那覇にあった遊郭の名」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。那覇には「辻」(ちーじ)、中島、渡地(わたんじ)の三つの遊郭があった。【沖辞】によると、辻は本土人(薩摩藩)、中国人、首里那覇の上流人を相手としていた。中島は首里那覇の普通の士族を相手にした高級遊郭で、渡地はいなか相手と、それぞれ、客の層が違っていたという。今の泉崎付近にあった。


唄三線 嘉手苅林昌


一、仲島の小橋あにんある小橋 じるが小橋やら定め苦りしゃ
なかしまぬくばし'あにん'あるくばし じるがくばしやら さだみぐりしゃ
nakashima nu kubashi 'aniN'aru kubashi ziru ga kubashi yara sadamigurisha
仲島の小橋 あんなにある小橋 どれが(約束の)小橋なのか決めにくい
語句・あにん あんなにも。<あん。ある。+ん。も。強調の助詞がついて→あにん。(例えば、「わん」〈私〉と「ん」が付いて「わんにん」〈私も〉となる」)・じる どれ。じるが→どれが。・ぐりしゃ しにくいことよ!(感嘆)。<ぐりしゃん。「‥しにくい。‥しがたい。」【沖辞】。



二、何時し名残ちゅが仲島の小橋 恋渡る人の繋ぢ所
'いちしなーぬくちゅが なかしまぬくばし くいわたるふぃとぅぬちなじどぅくる
'ichi shi naa nukuchuga nakashima nu kubashi kui wataru hwitu nu chinaji dukuru
いつのことか名が残ったのは 仲島の小橋 恋を渡る人を繋ぐ所
語句・いちし いつの。・ちなじ 繋ぎ。<ちなじゅん。糸などをつなぐ。



三、たとい仲島や音絶えて居てん恋渡る人の沙汰や残て
たといなかしまや'うとぅたいてぃうてぃん くいわたるふぃとぅぬさたやぬくてぃ
tatui nakashima ya 'ututaiti utiN kui wataru hwitu nu sataya nukuti
たとえ仲島は評判が絶えてしまっても恋渡る人の噂は残って
語句・うとぅ 「音。音響」もあるが「たより。音さた」「うわさ。評判」がある。「〜」・たいてぃうてぃん 絶えてしまっても。普通「絶えて」のウチナーグチは「てーてぃ」<てーゆん。を使うが林昌さんは「たいてぃ」と。文字数が「てーてぃ」だと二文字で字数足らずになるからか。・さた 噂。



四、仲島の浦の冬の寂しさや千鳥鳴き声に松の嵐
なかしまぬ'うらぬふゆぬさびしさや ちじゅいなちぐぅいにまーちぬ'あらし
nakashima nu 'uranu huyu nu sabishisa ya chiui nachikwii ni maachi nu 'arashi
仲島の浦の冬のさびしさは千鳥の鳴き声に松の嵐
語句・うら 「陸地が湾曲して湖海が陸地の中に入り込んでいる地形を指す。特に浦・浜は、前近代において湖岸・海岸の集落(漁村・港町)を指す用語としても用いられていた。」(Wikipediaより)





(コメント)

在りし日の嘉手苅林昌さんがよく好んで歌われていた曲の一つがこの「仲島節」。
普通のテンポと少し早弾きのそれがあり、人気度が高い民謡の一つ。

仲島と言えば、「仲島の大石」が有名で、泉崎にある那覇バスターミナル(2018年9月現在改装中)に突き刺さるようにそれは現在も残されている。その大石はよく見ると下の部分は波で侵食された跡、ノッチがある。沖縄の海岸でよく見るあの逆三角形の岩と同じものである。そしてこの岩は琉球時代の久米村の人々が「分筆峰」と呼んで縁起が良い岩として大切にされてきた歴史がある。


(2011年、筆者撮影)

仲島について

このウタは遊郭があった「仲島」をテーマにし、そこにあった小橋や浦の情景を描き込んでいる。それを知る手がかりを残された資料を元に少し覗いてみよう。

沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫に「沖縄志」(伊地知 貞馨著)がある。この作者のことについてはまた別の機会に触れたい。伊地知 貞馨(1826-1887)は薩摩藩出身の明治時代の官僚だ。この伊地知が1877(明治10)年に書いた「沖縄志」の第1巻に「那覇港圖」が描かれてある。



実に興味深い資料であるがここで見てほしいのは左側の仲島。拡大してみる。



仲島の大瀬(うふし)と仲島池がわかる。大瀬(うふし)は現在では大石(うふいし)と呼ばれているが大きな隆起サンゴ礁である。仲島池は「仲島小堀」(なかしまぐむい)と呼ばれていた。


「仲島の小橋」とは

「仲島小堀跡」(泉崎1-9)には那覇市が案内板を立てている。



その案内板の説明文にはこう書かれている。

『泉崎村(いずみざきむら)にあった人工の溜(た)め池跡。
 かつて泉崎村の地先一帯は、久茂地(くもじ)川が漫湖(まんこ)に合流する河口で、土砂が堆積(たいせき)した中州(なかす)は「仲島(なかしま)」と呼ばれ、その後の埋立により陸続きとなった地域である。
 河口(かこう)の水が湾入(わんにゅう)していた所は、17世紀中頃、泉崎村在住の唐人(とうじん)の薦めにより、火難封じの風水として、土俵をもって潮入口を塞ぎ、溜め池(小堀(クムイ))とした。小堀は、王国時代から養魚場として使われ、後に泉崎村の管理地となり、池から上がる収入で小堀の浚渫費(しゅんせつひ)に充てたという(『南島風土記(なんとうふどき)』)。
 仲島小堀では、その後も鯉(こい)や鮒(ふな)が養殖されていたが、昭和初期には埋め立てられ、1937年(昭和12)、埋立地に済生会(さいせいかい)病院が建設された。
 一方、仲島には、1672年に「辻(つじ)」(現那覇市辻一帯)とともに花街(はなまち)が開かれた。歌人として有名な「よしや」(吉屋チルー)は、この仲島で生涯を閉じたとされる。泉崎村から仲島へは小矼(こばし)(仲島小矼)が架けられており、花街への出入り口であった。仲島は、1908年(明治41)に辻に統合・廃止され、小矼も埋立・道路拡張により消失した。
 花街廃止後、埋立により住宅地として発展した泉崎は、沖縄戦後の区画整理により、往時の街並みとは異なった住宅地となった。』


上に掲げた「仲島節」の一番、

仲島の小橋あにんある小橋 じるが小橋やら定め苦りしゃ

に出てくる「小橋」とは上の説明文の中の

「泉崎村から仲島へは小矼(こばし)(仲島小矼)が架けられており、花街への出入り口であった。仲島は、1908年(明治41)に辻に統合・廃止され、小矼も埋立・道路拡張により消失した。」

の中の小矼のことだったのだろう。
ちなみに「矼」とは「石橋」のことである。


そして「仲島節」の四番で

仲島の浦の冬の寂しさや千鳥鳴き声に松の嵐

と歌われている「浦」とは仲島の大瀬(大石)が浮かぶあたりなのか、それとも仲島の小堀が海とつながっていた時代の「浦」なのか、どちらかはわからない。

遊郭の仲島は1908年(明治41年)に辻と統合されて移転した。
そして大正初年までにこのあたりの埋め立てが進んだ。

その後沖縄の鉄道の那覇駅が置かれていた。
沖縄戦で一帯は焼け野原となったが戦後はバスのターミナルとして沖縄の重要な交通の要所となって今に至る。

このウタが歌われた景色は「仲島の大石」以外にはもう消えてしまっている。
しかし三番の
たとい仲島や音絶えて居てん恋渡る人の沙汰や残て

歌うたびにタイムカプセルのように蘇るのである。


(この記事は2005年12月29日の記事を加筆したものです)


  

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2018年09月20日

今帰仁玉城小唄

今帰仁玉城小唄
なちじん たもーし こうた
NachijiN tamooshi ko'uta
語句・なちじん 今帰仁はウチナーグチで「なちじん」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)より。・たもーし 沖縄県今帰仁村の村。「岸本・玉城・寒水の三つの村(ムラ)が合併してできた字(アザ)である」(今帰仁村のホームページより)。


作詞/玉城長盛 作曲/川田松夫
(平良哲男氏の採譜から)


一、今帰仁の玉城 乙羽山くさて 昔並松の 栄え美らさ
なちじんぬたもーし うっぱやまくさてぃ んかしなみまちぬ さかいちゅらさ
nachijiN nu tamooshi 'uppayama kusati Nkashi namimachi nu sakai churasa
今帰仁村の玉城は乙羽山が後ろに控え 昔松並木はよく繁って美しいことよ
語句・うっぱやま 今帰仁村の玉城のすぐ南側にある標高275mの山。「乙羽岳」と呼ばれている。・くさてぃ 「後ろにすること。背にすること」【沖辞】。<くしゃてぃ。くし=背中、腰。どちらかというと背中全体。腰回りは「くし」(腰)と言わず「がまく」と呼ぶ。・なみまち 「松並木」【沖辞】。地元では「なんまち」と発音する。仲原馬場という場所にあるリュウキュウマツの並木。蔡温が植林を推奨したことにちなんで「蔡温松」とも呼ばれている。今帰仁ミャークニーの一節に「今帰仁の一条 並松の美らさ 花染みの芭蕉布と美童美らさ 」があるが「なんまちぬちゅらさ」と詠まれている。


ヤサヤサ ウネササ サカイチュラサ
やさやさ うねささ さかいちゅらさ
yasa yasa 'une sasa sakaichurasa
(囃子「ヤサヤサウネサ」は以下同じだが、「サカイチュラサ」のようにウタの最後の六文字が囃子の最後になる)
語句・やさ そう。・うね 「おや。珍しいものを見た時などに発する」【沖辞】。



二、並松の美らさ 村ゆだちかくて 生まりたる村や 親の心
なみまちぬちゅらさ むらゆだちかくてぃ んまりたるしまや わやぬくくる
namimachi nu churasa mura yu dachi kakuti 'Nmaritaru shima ya waya nu kukuru
松並木の美しことよ 村を抱き囲って 私が生まれた村は 私のご両親のようだ
語句・ 文語で「を」。口語では使わない。・だち 抱き。<だちゅん。抱く。・かくてぃ。囲って。かくまって。<かくゆん。「囲う。かくまう。」【沖辞】。・わや 私の親。<わー。私の。+ うや。親。融合したもの。・くくる 「心」ほかにウタでは「・・のよう」という比喩にも使われる。ここでも「松並木が村を抱き守っているように親が子ども抱いているようだ」ととれる。



三、ソーリ川の水や 岩かみて湧つい 玉城美童の 身もち美らさ
そーりがーぬみじや いわかみてぃ わちゅい たもーしみやらびぬ みむちちゅらしゃ
soorigaa nu miji ya 'iwa kamiti wachui tamooshi miyarabi nu mimuchi jurasa
ソーリガー(清水井)の水は岩を頭に乗せたようにして湧く 同じように玉城の娘は品行が美しいことよ
語句・そーりがー「字玉城にある泉の名。清水井の意。ソーヂは清水。『寒水』の字を当てた。」【今帰仁方言データベース】。ソーリガーは玉城にある。玉城は岸本・玉城・寒水の三つの村(ムラ)が合併してできた字(アザ)である。そのうちの寒水だった村にある。ソージガーがソーリガーと変化したのだろう。がー <かー。井戸。湧き水。この句は今帰仁ミャークニーの一歌詞である。・みむち「身持ち。体の保ちかた。また、品行。」【沖辞】。



四、村のなりわいや 作いもづくい 働ちゅる人の 心うりさ
むらぬなりわいや ちゅくいむじゅくいに はたらちゅるふぃとぅぬ くくるうりしゃ
mura nu nariwai ya chukuimujukui hatarachuru hwitu nu kukuru 'urisha
村の生業は農作物を作ること 働く人の心の嬉しさよ
語句・ちゅくいむじゅくい「農作物。季節季節の作物。」【沖辞】。・うりしゃ 嬉しさ。<うっしゃん。嬉しい。



五、デゴの花咲ちゅる玉城村里や 天雲ん晴りて山の美らさ
でぃーぐぬはなさちゅる たもーしむらさとぅや あまぐむんはりてぃ やまぬちゅらさ
diigu nu hana sachuru tamooshi murasatu ya 'amagumuN hariti yama nu churasa
デイゴの花が咲いている玉城の村々は天の雲も晴れて山が美しいことよ!
語句・でぃーぐ 「梯梧。旧暦4月ごろ、蝶形の、大きい、深紅の花を開く。沖縄の国花とされた。木材ではいろいろの器具を作る」【沖辞】。マメ科の落葉高木。東南アジア原産で日本では沖縄が北限。



六、岸本と玉城 寒永(そうじ)まで三村 互に肝合ち 村の栄え
きしむとぅとたもーし そーじまでぃみむら たげにちむあわち むらぬさかい
kishimutu tu tamooshi sooji madi mimura tagee ni chimu 'awachi muranu sakai
岸本と玉城、そして寒水まで三つの村 互いに心を合わせて村が栄える
語句・みむら 字の玉城は「岸本・玉城・寒水の三つの村(ムラ)が合併してできた字(アザ)である」(今帰仁村のホームページより)。



今帰仁の玉城を讃える民謡として、玉城出身の玉城長盛さんと川田松夫さんが作られた。玉城では婦人会が踊っておられるということで、三線の工工四を起こすために平良哲男氏から音源を頂いた。ネットで調べてみるとレコードの表紙と演奏者の名前がわかる。


▲レコードの表紙。

「今帰仁玉城小唄」という名前だと分かる。
バンド名は「川田松夫とニュースターズ」。
したがって歌われているのは川田松夫氏、ご本人である可能性が高い。

歌詞について

作詞された玉城出身の玉城長盛氏は三番に「今帰仁ミャークニー」の歌詞を挿入されている。
玉城長盛氏の詳しいことについてはわからない。

川田松夫氏のプロフィール

川田松夫氏は「西武門」節の作者として有名であるが、すこしプロフィールを見てみよう。

1903年(明治36年)那覇市生まれ。早稲田大学卒、大蔵省、沖縄県庁の職員時代に琉球古典音楽、舞踊を習得した。
1932年(昭和7年)「一日橋心中」「西武門節」発表。
1953年(昭和28年)東京で沖縄料理店「みやらび」開店。
1983年(昭和56年)永眠。78歳。
代表作品 西武門節、一日心中、オーライ節、疎開小唄、帰還の知らせ、しみるする何が、
居しどぅかかる、酒ぐゎ飲み飲み、嘆きの渡り鳥、想い。
【参考「沖縄新民謡の系譜」(大城學)】

今帰仁玉城小唄の工工四

(クリックで拡大)
又は「今帰仁玉城小唄」の工工四


(採譜 筆者たるー)


▲今帰仁玉城で「今帰仁玉城小唄」を踊っていらっしゃる婦人部の皆さん。


  

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2018年07月18日

辻千鳥

辻千鳥小
ちーじ ちじゅやー
chiiji chijuyaa
辻の千鳥節
語句・ちーじ 「[辻]那覇にあった遊郭の名。本土人・中国人・首里・那覇の上流人を相手とした高級な遊郭であった。那覇にはciizi,nakasima[中島],wataNzi[渡地]の三つの遊郭があり、ciiziが高級で、nakasimaは首里・中島相手、wataNziはいなか相手と、それぞれ、客の層が違っていた」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。・ちじゅやー 小鳥を口語で「ちじゅい」と呼び、「浜千鳥」(はまちどぅり)という舞踊曲を俗に「ちじゅやー」と呼んだ。このウタはその「浜千鳥」を早弾き調に変え、辻の遊郭の尾類(女郎)をテーマにしている。「遊び千鳥」(あしび ちじゅやー)とも呼ばれることがある。


作詞 登川誠仁 (原曲は「浜千鳥」)


一、 尾類ぬ身や哀り 糸柳心 風ぬ押すままに靡ち行ちゅさ 無蔵ぬくぬ世界や かにん辛さ
じゅりぬみや あわり いとぅやなじぐくる かじぬうすままに なびち (なびち)いちゅさ んぞぬくぬしけや かにんちらさ
juri nu mii ya 'awari 'ituyanaji gukuru kaji nu 'usu mamani nabichi 'ichusa Nzo nu kunu shikee ya kaniN chirasa
(括弧の繰り返しは以下略す)
女郎の身は哀れなものだで糸柳のよう 風が吹くままなびいていくよ。貴女のこの世界はこんなにも辛いことよ。
語句・じゅり 「女郎。遊女。娼妓。歌も歌い、三味線も弾くので芸者を兼ねている。」【沖辞】。 ・いとぅやなじ 「糸柳。しだれ柳」【沖辞】。 ・ぐくる <くくる。心。「〜のように」と言いたい時に使う。 ・んぞ 「男が恋する女を親しんでいう語」【沖辞】。 ・かにん かようにも。



二、 枕数交わす 尾類ぬ身ややてぃん 情きある枝る頼てぃ 頼てぃ咲ちゅる 思るままならんくぬ世界や
まくらかじかわす じゅりぬ みややてぃん なさきある ゐだる たゆてぃ さちゅる うむるまま ならんくぬしけや
makura kaji kawasu juri nu mii ya yatiN nasaki 'aru yida ni tayuti sacyuru umurumama naraN kunu shikee ya
枕数交わす 尾類の身であっても 情けある枝だけを頼って咲く。思うままならないこの世界は。
語句・まくらかじかわす 多くの客と接する。 ・ こそ。「どぅ」と同じ。「d」と「r」が入れ替わることがよくある。



三、 稲ぬ穂んあらん 粟ぬ穂んあらん やかりゆむどぅやが かかい しがい 連りなさや 世界ぬなれや
んにぬふんあらん あわぬふんあらん やかりゆむ どぅやが かかい しがい ちりなさや しけぬなれや
'Nni nu huN 'araN 'awa nu huN 'araN yakari yumu duya ga kakai shigai chirinasa ya shikee nu naree ya
稲の穂ではない 粟の穂ではないのに ずうずうしい嫌な鳥が付きまとう。連れないことよ 世界にはつきものだ。
語句・やかり 「(接頭)ずうずうしいやつ、太いやつの意」【沖辞】。 ・ゆむ 「いやな」 「(接頭)罵詈・嫌悪の意を表す接頭辞。」【沖辞】。 ・どぅや <とぅい。鳥。 ・かかいしがい「うるさくつきまとうさま。まつえありつくさま」【沖辞】。・ちりなさや 連れないことよ!情けないことだなあ。 ・なれ<なれー。「習わし。習慣」【沖辞】。常にあること。



四 、 夕間暮とぅ連りてぃ立ちゅる面影や 島ぬ親兄弟ぬ想いびけい 我が儘ならん世界ぬなれや
ゆまんぐぃとぅ ちりてぃ たちゅる うむかじや しまぬうや ちょでーぬ うむいびけい
わがままんならんしけぬなれや
yumaNgwi tu chiriti tachuru 'umukaji ya shima nu 'uya choodee nu 'umui bikei waga mama naraN shikee nu naree ya
夕暮れと連れて 立つ面影は 故郷の親兄弟の想い 想いばかり。私のままにならない世界の常よ。
語句・ゆまんぐぃ 夕暮れ。



五、 我が胸ぬ内や枠ぬ糸心 繰い返し返しむぬゆ 思てぃ 無蔵ぬくぬ世界や かにん辛さ
わがんにぬうちや わくぬ いとぅぐくる くいかいし がいし むぬゆうむてぃ んぞぬくぬしけや かにんちらさ
waa ga Nni'uchi ya waku nu 'itugukuru kuikaishi gaishi munu yu 'umuti Nzo nu kunu shikee ya kaniN chirasa
私の胸の内は 枠に巻いた糸のようなもの 繰り返し繰り返し 物思いにふけっている。貴女のこの世界はこんなにも辛いものだ。
語句・ んに 胸。・わく 「籰(わく)。手で回しながら糸を巻きつける織具」【沖辞】。一旦綛(かせ、ウチナーグチで「かし」)に糸を巻いてから、枠(籰)という少し大きな器具に糸を巻き直していく。この時点でで糸の長さなどを測ることができる。・いとぅぐくる 糸と同じようなもの、という意味。 ・かにん こんなにも。強調。


登川誠仁さんのCD「STAND」に収録されている。


「浜千鳥節」(ちじゅやー)を早弾き調に変え、尾類(ジュリ)のあり方の悲哀と情念を切々と歌い上げる。「遊び千鳥」(あしびちじゅやー)と銘打った工工四も登川誠仁さんの工工四集にはある。

ジュリについては「さらうてぃ口説」の項にも少し解説を書いているが、ここにも載せておく。
琉球の文化にとってジュリ(女郎)の果たした役割を無視するわけにはいかないからである。

(「さらうてぃ口説」の筆者解説より)

恩納ナビーと並んで称される吉屋チルーという琉球時代の女流詩人は読谷に生まれ8歳のとき那覇仲島へ遊女として身売りされた。このように大半が地方の貧困層、つまり士族以外の平民の娘が身売りさせられた。女郎は琉球では「ジュリ」と呼ばれた。遊郭は自治制度があり女性だけで管理され、ジュリアンマー(女郎の抱え親)と呼ばれる人々が母子関係を結び、歌や三線、舞踊などの芸事を教えていった。

遊郭は各地にあったが、尚真王の時代、羽地朝秀(1617ー1675年)が1672年、辻、仲島に遊郭を公設した。背景には薩摩藩からの指示があったと推測されるが、遊郭の管理を王府として行う事で風紀の乱れを防止しようとした。そして琉球王朝が廃藩置県で沖縄県となり、太平洋戦争で米軍によって空襲を受けるまで辻、仲島の遊郭は存在し続けたのである。

沖縄語辞典(国立国語研究所編)には「辻」の項でこうある。

「[辻]那覇にあった遊郭の名。本土人・中国人・首里・那覇の上流人を相手とした高級な遊郭であった。那覇にはciizi,nakasima[中島],wataNzi[渡地]の三つの遊郭があり、ciiziが高級で、nakasimaは首里・中島相手、wataNziはいなか相手と、それぞれ、客の層が違っていた」

本土人とは主に薩摩藩の役人で、中国人とは冊封使のことである。それ以外、商人なども含まれる。遊郭で展開された琉球芸能は表に出ることがほとんどなく記録も非常に少ない。それでも琉球古典音楽や舞踊、さらには地方の祭祀や芸能も含め、琉球芸能の重要な部分を構成していたと言われている。琉球王朝の文化である古典音楽も含め遊郭の中で展開された芸能との関わりは無視できない。


▲「琉球交易港図屏風」(浦添市美術館蔵)に、18世紀頃の辻の遊郭とジュリの姿が描かれている。
鳥居の左横の村が辻村で、その周囲の派手な着物をまとった人々がジュリだ。この図屏風にはあちこちに薩摩藩の船や武士が描かれている。当時の関係の深さをうかがい知ることができる。
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Posted by たる一 at 13:16Comments(0)た行沖縄本島

2018年05月30日

今帰仁ミャークニー

今帰仁ミャークニー
なちじんみゃーくにー
nachijiN myaakunii
今帰仁のミャークニー(宮古の音)
語句・なちじん 現在の沖縄県国頭郡今帰仁村を指す。琉球王朝時代の17世紀の頃、今帰仁間切はほぼ本部半島全域だったが18世紀の初めに本部間切と今帰仁間切に分離された。・みゃーくにー宮古の青年が歌うアヤグを聴いた今帰仁の青年が今帰仁で作り変えたという伝承があるウタ。故に「宮古根」「宮古音」「宮古ニー」などとも書かれる。沖縄本島で愛される様々なナークニーの原型とも言われる。


歌三線 平良正男氏
(2017年末にお借りしたテープから筆者聴き取り。今までの今帰仁ミャークニーとは手もウタも少し違うもの。歌詞、訳には平良哲男氏からアドバイスを頂いた)



1、他所目まどぅはかてぃ 三箇村通てぃ(ヨ)月ぬ抜ちゃがてぃる 戻てぃいちゅさ
[(ヨ)は囃し言葉なので以下省略。]
ゆすみまどぅ はかてぃ さんかむらかゆてぃ ちちぬぬちゃがてぃる むどぅてぃいちゅさ
yusumi madu hakati saNkamura kayuti chichi nu nuchagati ru muduti 'ichu sa
人目を忍んで三つの村に通って、月が雲を抜けて上がったころには戻っていくよ
語句・ゆすみ 「よそ目。人目。他人に見られること。」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。・まどぅはかてぃ すきを見はからって。つまり「ゆすみまどぅはかてぃ」で「他人の目のすきを見はからって」。・さんかむら 玉城村・岸本村・寒水村のアサギで、三つの村の存在を示すものである。三つの村は、明治36年に合併され玉城村となり、同41年に字玉城と改称され、現在に至る。・ぬちゃがてぃる 雲を抜けて上がって。<ぬちゃがゆん。「抜けて上がる。抜けて上に出る」【沖辞】。+る<どぅ。こそ。



2、月や抜ちゃがてぃん なま鶏や鳴かん 夜明け星見らん時ゆでむぬ
ちちやぬちゃがてぃん なだとぅいや なかん ゆあきぶし みらんとぅちゆでむぬ
chichi ya nuchagatiN naada tui ya nakaN yuuakibushi miraN tuchi yu demunu
月が上がってもまだ今はニワトリは鳴かない 夜明け星が見えない時間であるから
語句・でむぬ 「…であるから。…なので」【沖辞】。・ゆあきぶし 明けの明星。金星。



3、恋ぬ邪魔すゆる 悪魔ふくら木や 何時枯りてくぃゆが 年や寄たさ
くいぬじゃま すゆる あくまふくらぎや いちかりてぃくぃゆが とぅしや ゆたさ
kui nu jyama suyuru 'akuma hukuragii ya ’ichi kariti kwiyu ga tushi ya yutasa
恋の邪魔をする悪魔のようなきりんそう(親のこと)は いつ枯れてくれるだろうか 年もとったよ
語句・ふくらぎ <ふくるぎ。「きりんそう。多年生草本。」【沖辞】。「魚を捕るために水中に投入する毒物。hukurugi(きりんそう)の茎・葉を切って乳状に液が出たところをそのまま水中に投入する」【沖辞】。ここでは子どもの恋の邪魔をする憎い親への例え。


4、約束やしちょてぃ あてぃぬねん里前 月や山ぬ端にさがるまでぃん
やくしくやしちょーてぃ あてぃぬねんさとぅめ ちちややまぬふぁにさがるまでぃん
yakushiku ya shichooti 'ati nu neeN satume chichi ya yama nu hwaa ni sagarumadiN
約束はしているのに 当てにならない貴方 月が山の端に沈むまでも来ない



5、無蔵がさたすたる 中城ぶじょや 黒髭小立てぃてぃ うとぅな なたさ
んぞが さた すたる なかぐしく ぶじょーや くるふぃじぐゎーたてぃてぃ うとぅななたさ
Nzo ga sata sutaru nakagushiku bujoo ya kuru hwiji gwaa tatiti ’utuna natasa
貴女が噂をした中城奉行は黒ひげを立てて大人になったよ
語句・さたうわさ。・ぶじょー 奉行。平良哲男さんは「巡査」と訳されておられた。・うとぅな 大人。



6、むしるかちゃ引ちゃい 里まちゅる裏座 里や花ぬ島 恋の遊び
むしる かちゃ ふぃちゃい さとぅまちゅる うらじゃ さとぅやはなぬしま くいぬあしび
mushiru kacha hwichai satu machiru ’uraja satu ya hana nu shima kui nu ’ashibi
筵をひいて蚊帳を吊って貴方を待つ裏座 貴方は遊郭へ行って恋の遊びでもしてるのか?
語句・むしる 筵。むしろ。い草、アダン葉などを編んで作る。布団の代わりに使用。・かちゃ 蚊帳。蚊帳は吊るすが「ふぃちゅん」(引く)と言った。・うらじゃ 裏座。寝間。・はなぬしま 遊郭やモーアシビの盛んなシマのことをそう呼んだ。



7、寄る年ぬまたとぅ若くならりゆみ ただ遊びみそり 夢ぬ浮世
ゆる としぬまたとぅわかくならりゆみ ただあしびみしょーり いみぬうちゆ
yuru tushi nu matatu wakakunarari yumi tada ’ashibi misyoori ’imi nu ’uchiyuu
寄る歳は 再び若くなれまい?ただお遊びください 夢のようなこの世を
語句・ならりゆみ なれるか?という疑問文だが、「いや、なれない」という反語表現を含む。



8、誠一筋に生ちち来ゃる我身の 神ぬお助けに あるが嬉しゃ
まくとぅ ひとぅしぢに いちち ちゃる わみぬ かみぬ うたしきに あるが うりしゃ
makutu hwitushiji ni ’ichichi chaaru wami nu kaminu ’utashiki ni ’aru ga ’urisha
誠実に生きてきた自分に 神のお助けがあることが嬉しい
語句・うたしき 「お助け」の文語表現。



(解説)

これまで取り上げてきた「今帰仁ミャークニー」の続きである。



このウタとの出会いは偶然だった。2017年12月に平良哲男さん宅にお邪魔したときに平良正男さんが録音された多くのカセットテープの中から九本ばかりをお借りした。そのカセットのケースには「平敷の与那嶺盛カマさん」と書いてあったので、私はその方の歌三線だと思い込んでいた。これまでの正男さんの手や節が違っていたからだ。しかし平良哲男さんが正男さんに確認すると正男さんの歌だということが確認できた。

これまでの今帰仁ミャークニーとの違い

・「中出じゃし(なかんじゃし)」と呼ばれる歌い出し。
・高く上がっている時間が一拍多い、つまり長い。
・前半と後半の間(まー)が短い。
・しかし全体の拍数は全く同じ。手も似ている。

などが挙げられる。

参考のために二つの工工四を比べて掲載しておく。


《これでの今帰仁ミャークニー》


《今回のもの》

拡大したものはコチラ


モーアシビに結びついた歌詞

歌詞を見てみよう。その多くがモーアシビを連想させる歌詞になっている。

昔のモーアシビの情景はどうだったのだろう。あるものが歌えば、誰かが歌で返す、いわゆる歌垣(ウタガキ)が行われた。その歌で愛を語らう者がいたり、互いを褒めたり、揶揄したり、また神を讃えたりして、いわば芸能を磨き、男女の想いも強くしていったという。また力自慢の者たちは相撲をしたり、賭け事をしたり、若者たちの自由な娯楽の場であった。

自分のシマ(村)だけでなく他シマに出かけていくこともあったようだ。

平良正男さんによると、シマからシマへ移動する時には必ずミャークニーを歌ったという。それは夜中の道の寂しさに負けないためもあるし、元気をつけたり、退屈をしのぐためでもあったという。何時間もあるくので歌詞は無数に覚えなければなかったそうだ。即興もあっただろう。シマのモーアシビに参加すればウタによる勝負もあっただろう。 そうしてウタが鍛えられてきたのだ。

そんなモーアシビは1940年代には姿を消した。日本の軍国主義の台頭と共に吹き荒れた「風俗改良運動」の中で徹底的に警察、青年団、村組織をあげて一掃されてしまった。

こうしたモーアシビの受難は、さかのぼれば薩摩藩が琉球を軍事的に制圧した17世紀以降強まっていた。琉球王府は薩摩藩にも上納する租税を強化するとともにモーアシビや女性たちの神遊び(シヌグ)などを制限し、自由恋愛ではなく家父長制の下で親が認めた結婚が主流となるようにした。モーアシビは仕事にも影響がある、家父長制にとってもよろしくない、というわけだ。

もう失われたモーアシビの情景。しかしウタは残っている。ミャークニーに限らずモーアシビから生まれ、育てられたウタは多い。その情景は消えてしまったのにウタが継承されるかどうかは非常に厳しい状況にある。歌い手も高齢化しテクニックの継承や新たな歌詞なども生まれてくることは難しいのだ。

「ウタのゆりかご」のようなモーアシビの情景を浮かび上がらせる今帰仁ミャークニーもまた歌い継いでいけるかどうかの瀬戸際にあると言っても過言ではない。平良正男さんの御子息の平良哲男さんは歌い継いでいかれようとされている。

私も微力ながらそれを応援するとともに広島でも歌っていきたいと思っている。









  

Posted by たる一 at 07:27Comments(0)な行沖縄本島
プロフィール
たる一
本名は関洋(せきひろし)。宮崎市出身。現在、広島市在住。琉球民謡協会教師。広島で三線教室の指導や唄三線の活動にかかわる。海田公民館三線講座、横川三線教室、中国新聞文化センター「楽しい沖縄民謡と三線講座」、YOU果報バンドの主宰。
(参考辞書など)・「沖縄語辞典」(国立国語学研究所)〔【沖辞】と表記〕  ・「琉球語辞典」(半田一郎)〔【琉辞】と表記〕・「石垣方言辞典」(宮城信勇)〔【石辞】と表記〕 ・「琉歌大成」(清水彰)・「こりくつタンメーのウチナーグチ解説メモ」(胤森弘) ・「沖縄語の入門」(西岡敏 仲原穣)・「島うた紀行」(仲宗根幸市)「沖縄古語辞典」(角川書店)その他。
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